七夕の酔っぱらい

「ここ、いいかしら」

 頭上から、ひどく不機嫌な口調の言葉をかけられたのは、馴染みの居酒屋でひとり、焼き鳥を食べているときだった。

 食べかけの串を皿に戻し、見上げると、ひとりの女性がそばに立っていた。

 まだ若い。二十歳になったばかりだろうか。Tシャツにジーンズ、サンダルといったラフな格好で、長い黒髪を無造作に束ねている。整った顔立ちと両耳が赤くなっていて、そして、ひどく酒臭かった。

 どこかで飲んできたのかもしれない。だとしたら、面倒くさいのに絡まれたかな。僕がそんなことを思っているあいだに、彼女はこちらの返事を聞くことなく対面の椅子に腰をおろし、生ビールひとつ、と大声で注文していた。

 その横顔を見つめ、僕は口をひらいた。

「ほかのテーブルもあいてるよ」

 彼女の顔がこちらを向いた。目がつり上がっていた。

「なによ。ここに座ったらいけないの」

「そういうわけじゃないけど」

「それなら、なによ」彼女の口調は、完全に酔っぱらいのそれだった。「だいたい、どうして居酒屋でひとりぼっちなのよ。ひとりで飲みたかったら、スーパーで缶ビールでも買って家で飲んでればいいじゃない。ここはみんなで飲んで楽しむ場所でしょ。それに、こんな美人と相席できるんだから感謝くらいしなさいよ」

 乱暴な物言いに、おもわず苦笑がもれた。人の話を聞かず、自分勝手で、怒りの沸点がかぎりなく低い。典型的かつ、重度の酔っぱらいだが、彼女のいうことも一理あった。たしかに、ひとり、居酒屋で飲むより、ふたりのほうが楽しいだろう。相手が酩酊しているとはいえ、美人ならなおさらだ。

 僕は二杯目の生ビールを注文した。

「それで」彼女はいった。「あなた、どうしてひとりで飲んでるの」

「べつに理由はないよ。ただ、そういう気分だったから」

「ふうん。あなたって、ずいぶんさびしい人間なのね」

 ふたたび苦笑がもれた。「そうかもしれないな。ところで、きみはどうしたの。そうとう酔ってるみたいだけど」

「デートをすっぽかされたの」

 頬杖をつき、そっぽを向いて彼女はいった。

 ビールが運ばれてきた。乾杯をするまえにジョッキを持った彼女は、一気にそれをかたむけた。細いのどが大きく上下する。やがてジョッキをテーブルに置いたとき、中身は半分ほどなくなっていた。唇のはしからもれたビールを手の甲でぬぐいながら、酒臭いげっぷをしたあと、まくし立ててきた。

「待ち合わせ場所にこなくてさ、連絡しても出なくて、心配になって家にいったら、べつの女と一緒にいんの。しかも裸でベッドで抱き合っててさ。頭にきて、おもいきりビンタして、あいつに買ってもらったバッグを投げつけて出ていったの」

 一気に話してから、上品とはいえない食べかたで焼き鳥をかじりつき、ビールで流し込んだ。僕は追加の焼き鳥も注文した。

 それにしても、七夕の夜、浮気が原因で別れるカップルはどれほどいるだろうか。その片割れに絡まれ、一緒に酒を飲むのは、ある意味では、めずらしい体験といえるのかもしれない。

 焼き鳥の皿が運ばれてきて、彼女が二杯目のビールをおかわりして、僕らはしばらく他愛もない会話を続けた。といっても、彼女のほうが一方的に話して、こちらが相づちをうつといった感じだったが。

「あなた、なにしてるわけ」

 三杯目のビールを半分ほどあけたところで、彼女が問いかけてきた。その口調はだいぶあやしくなっていた。

 僕はたずねた。「なにが?」

「仕事よ、仕事。あなた、どんな仕事をしてるわけ」

「ネジをつくってるよ」

「ネジって、あの?」

「そう。ボルトのこと」

「わかってるわよ、そのくらい」彼女の顔はアルコールのせいで真っ赤に染まっていた。「それで、ネジをつくるのっておもしろいの」

「おもしろくはないかな」僕はいった。「機械に鉄の丸棒をセットすれば、あとはボタンを押すだけだからね。加工は全部、機械のほうでやってくれるから」

「でも、立派な仕事じゃない」

「そうかな」

「そうよ」

 彼女はまるで、できのわるい生徒に教える女教師のように、指し棒のかわりに焼き鳥の串をふって、いってきた。

「ネジってさ、あらゆるものに使われてる大切なものじゃない。世の中のほとんどのものがネジで固定されてるわけでしょ。そしてあなたはそれをつくってる。立派なことじゃない。もっと」

 言葉はそこで途切れた。まるで映画のなかで場面が切り替わるように、とつぜん彼女はうつむき、そして、口から茶色い嘔吐物を吐き出したのだ。

 僕は立ち上がり、声を上げた。

「すみません、ナプキン、いや、雑巾を。それと会計もお願いします」

 若い店員がふたりやってきて、いやな顔をせず、手早く片付けをはじめた。僕は彼女の細い肩をだきかかえ、レジまで移動した。

「申し訳ない。いくらですか」

 女性の店員が伝票を読んだ直後、僕は一万円をトレイに置いた。

「おつりはいらない。迷惑料だと思って。あ、レシートもいい」

 早口にいって、すぐに店を出た。夜の町の空には、夏の大三角形が輝いていた。



 夏の夜は涼しく、酔ってほてった身体には心地よかった。僕らは公園のベンチにいて、彼女は頭をおさえながら横になっている。顔の近くに、自動販売機で買ってきたペットボトルの水を置くと、ちらりとそれに目をやり、また夜空を見上げた。

「あれ」

 横になったまま、彼女が手を伸ばし、夜空を指さした。

「私の彼氏。もと恋人」

 細長い人差し指のさき、その遠く向こうでは、夜空のなか、夏の大三角のひとつ、アルタイルがあざやかにきらめいている。

 僕は彼女の顔に視線を戻した。目が合った。公園の街灯に照らされた横顔には、子供のような無邪気でいたずらっぽい笑みがうかんでいた。

「それじゃあ、きみは織姫なの」僕はたずねた。

 彼女がうなずく。

「酔っぱらってるのに?」

「織姫だって、むしゃくしゃして酔っぱらうこともあれば、吐くときだってあるでしょ」

「たしかに」

 ベンチの上で上半身を起こした彼女は、水を口にふくむと、うがいをして、それからもう一度、ペットボトルに口をつけた。

 僕はいった。「きょうはもう帰ったほうがいい」

 彼女がにやりと笑った。「こういうときって、どこかで休憩しようっていって、ラブホテルに連れ込むんじゃないの?」

「酔って吐いた女性を抱こうとは思わないよ」

「それもそっか」

 ふらつきながらも、彼女は立ち上がり、顔をなでる涼しい夜風に目をとじた。そして、目をあけ、こちらに顔を向けたとき、そこには理知的で優しい光があった。

「きょうはありがとう。それと、ごめんなさい。いろいろ迷惑をかけて」

 酔いが醒めてきたのか、彼女の口調は落ち着いていて、おだやかな響きがあった。

「奢ってもらった分は返すね」

「いいよ、そのくらい」

「ダメよ。こういうのはちゃんとしないと、私の気がすまないの」

 口調には、絶対に譲らないという強い意思が感じられて、僕は苦笑しながら提案した。

「それなら、今度もし会うときがあったら、きみが奢るというのは?」

「あ、いいわね、それ」

 うなずいたあと、彼女は小首をかしげ、人差し指をあごに当て、しばらく宙をながめたあと、こちらに顔を戻した。

「こうしましょう。来年、私たちはまた会うの。一年後のきょう、七夕の日に」

「彦星と織姫みたいに?」

「そう」と彼女は微笑した。「彦星と織姫みたいに」

 僕らは小指を絡ませ、子供のように指切りをしたあと、夜の公園でそのまま別れた。彼女は千鳥足でふらふらとしていたが、それでも、駅まですぐだから、とほほえんで歩いていった。その後ろ姿が夜の闇のなかに消えたあと、僕も歩きはじめた。

 家までの帰り道、夜空を見上げると、こと座のひとつ、ベガが一番まぶしく輝いていた。

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