リピート

 雨が降っていた。

 ぽつりぽつりと、強くもなく弱くもなく、ゆるい蛇口からこぼれる水滴のように、ひとつぶのしずくが一定のリズムのまま、ゆっくりと落ちてくる。

 それを目にしながら、これくらいなら傘はいらないな、と鈴木 美里は部屋を出た。鍵をかけ、廊下を歩き、階段をおりる。八階建てマンションの二階という、エレベーターを使うかどうか迷う高さだが、最近はじめたダイエットのため、歩くことにしたのだ。

 外は寒かった。雨が降っているのもあるが、十月の終わり、本格的な冬がおとずれる肌寒さが、よわい風のなかにある。

 傘はいらないけど、コートは欲しかったかな。苦笑いをうかべながら歩きだしたところで、いくえもの灰色の雲におおわれた空のなかに、なにか光るものがあった。 錯覚だったかもしれない。まばたきをしたとき、それは跡形もなく消失していた。

 はあ、と息をはいて歩きはじめる。あと数ヶ月でそれが白くなる季節だ。いま降っているしずくも、雪となって、世界を白銀に変えてしまう。憂鬱な空のした、美里の足は軽くなった。冬は好きな季節だった。とくに、積もった新雪を踏むあの瞬間、あの感触がなによりも大好きだった。なにもない白の世界に自分の足跡をのこす行為。子供っぽいと笑われても、雪が積もった朝、だれよりも早起きをして、雪を踏むのが楽しみだった。

 苦笑をほほえみに変えながら、交差点をわたって、コンビニエンスストアにはいる。いつも注文しているホットのカフェオレを片手に店を出て、会社に向かう矢先、突然、それは起きた。

 最初に聞こえたのは甲高いブレーキの音だった。

 それから黄色。視界を一瞬でふさぐその黄色のなかに男の顔があった。ハンドルを握る彼の顔はおどろきにみちていた。その顔が目の前まで迫った刹那、視界がブラックアウトした。衝撃。痛みはなかった。ただ浮遊感があった。ゆがむ視界のなか、世界が反転している。手に持っていたはずのカフェオレが、目の端で回転しながら落下している。

 空中に浮いている、と気づいたのは、地面に落下したあとだった。頭からアスファルトに叩きつけられ、視界が真っ赤に染まるなか、もう一度、身体がバウンドする。きらきら光るものが落ちてきた。雪が降ってきたのかな。いや、冬はまだのはずだ。地面にうつぶせになり、見上げる視界のなか、遠くに黄色の車があった。フロントガラスが大きく割れている。その破片が宙を舞い、きらきらと光りながら落下しているのだ。まるで冬に降る雪のように。

 そこで美里の意識は途絶えた。



 ノイズのような話し声が聞こえ、ぽんやりと意識が目覚めてくる。ここはどこ。美里はゆっくりと目をあけた。

 白いなかにいた。

 上と下も、右も左もすべてが真っ白だ。そのなかで、白いなにかがもぞもぞとうごめいている。意識が覚醒してくるにつれて、視界がはっきりとしてくる。白い空間がかたちづいてくる。部屋のなかだった。床も天井も壁も白い室内で、美里はあおむけになっていた。

 近くにいる白いなにかが、ゆっくりと動く。それは人だった。まるで手術中の外科医のように全身をつつむ白い術衣を着て、頭からすっぽりかぶる白い帽子で耳まで隠し、大きな白いマスクをしている。手袋も白色だ。部屋のなかに溶け込むように全身が白のなか、ゴーグルをつけた目だけが別の色をしていた。

 彼、もしくは、彼女は青色の瞳を向けてきた。

「目が覚めましたね」声は機械のように平坦だった。

「あの、ここは」

「すこしお待ち下さい」白い人は奥に顔を向けた。「テイトク、起きました」

 テイトク? 船の、あの提督のことかしら。疑問に思っていると、白い扉がひらき、ひとりの生物がはいってきた。

 白い上下のスーツを着ていて、両肩から短作のような金色の肩章が垂れている。年齢は四十後半、もしくは五十くらいだろうか。いかつい顔と、険しいまなざし、刈り込んだ黒髪のなかには白いものがまじっている。そしてなにより、背が低かった。ランドセルを背負っていても違和感がないほど、まるで小学生のように身長が小さい。ゲームや映画のファンタジーにでてくる小人の種族、ホビットのようだ。その体型といかつい顔がひどくアンバランスだった。

 彼はこちらまで移動すると、視線を下げ、口をひらいた。

「はじめまして、お嬢さん。体調はいかがですか?」

「あ、あの」

「心拍、脈拍とも、問題ありません」白い男がこたえた。

「ふん」と提督。「それは結構。さて、お嬢さん、あなたには、われわれのことを知ってもらう必要がある。Bー62」

「はい」B−62と呼ばれた白い男がうなずいた。それはまるで機械のような動作だった。

「説明を」

「了解しました」彼の顔がこちらを向いた。「はじめまして。われわれは、火星からやってきたものです。宇宙パトロールの最中、宇宙船のエンジンの調子がわるく、この星に不時着しました。そのさい、たまたま車を運転していた現地人が、偶然われわれの船を目撃して、そのことにおどろき、事故を起こしてしまったのです」

 彼の話を聞いて、記憶がよみがえってきた。急ブレーキの音。黄色の車体。大きな衝撃。美里はたずねた。

「もしかして、その事故の被害者って」

「理解がはやくて助かる」提督はうなずいた。

「われわれがあなたを見つけたとき、すでに手遅れの状態でした」Bー62がつづける。「地球の医学技術ではおそらく、息絶えるのも時間の問題でしたでしょう。そこですぐにこの船に運び、緊急の手術をおこないました。われわれの技術であれば、後遺症も傷跡もひとつ残らず、完治させることができますから」

「感謝はいらんぞ」偉そうに提督がしめた。

 美里はなにもこたえず、上半身を起こした。

 どうやらベッドの上にいたらしい。科学は優れているらしいがマットは最悪だ。固くて背中と腰がやけに痛む。ひたいをおさえる。B−62の説明を、混乱した頭のなかで、ゆっくりと反芻する。そして、すべてを理解したところで、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。ふたりに顔を向けると、B−62が口をひらいた。

「感謝はいりません。当然のことをしたまでです」

「当たり前じゃない」美里はさけんだ。「あなたたちバカなの。自分たちの不注意で起こした事故なのに、なにが感謝はいらないよ。むしろ謝りなさいよ。私を殺しかけたことを」

「しかし、あれは偶発的な事故であり・・・・・・」

「偶然でも必然でも、だれかに迷惑をかけたら頭を下げるのが地球の礼儀よ」

「いやはや、気の強いお嬢さんだ」

 なにもこたえれず、動きを止めたBー62のかわりに、提督が口をひらいた。

「もちろん、きみにはわるいことをしたと思っている。だからこそ治療も施し、タイムバックも行おうとしている」

「タイムバック?」

「過去への移動です」B−62がこたえた。「いまこのときから、あなたが事故に合うまえまで、時間を巻き戻します」

「そんなことができるの?」

「われわれの科学は時間跳躍を可能としました。しかし、宇宙のすべてのできごとを変化させてしまうため、この技術を利用するさい、記憶を消去させていただきます」

「それは、タイムバックの記憶だけ?」

「われわれのこともふくめて、すべて」

 美里は考えた。事故に合うまえに戻るかわりに、このできのわるいSFのようなもろもろを忘れてしまう。わるいことはひとつもない。なにも困ることはない。今後、火星人と交流する機会などないのだから。

「いいわ。やってちょうだい」

「了解しました」B−62が提督に顔を向けた。「それでは、われわれの記憶を消去します」

「え、ちょっと待って。あなたたちの記憶も消すの?」

「当然だ」提督はこたえた。「ここにいるすべての記憶を消すのが、タイムバックの条件なのだ。B−62、やってくれ」

「いや、あなたちの記憶も消したら」言葉はそこで途切れた。

 視界がぐにゃりとかたむき、揺れて、歪み、そして意識がブラックアウトした。



 雨が降っていた。

 このくらいなら傘はいらないな、とマンションを出たとき、雲のなかに光るものを見つけたが気にせず、コンビニエンスストアでカフェオレを買って、会社に向かう途中、ブレーキの甲高い音が響いた。猛スピードで迫りくる黄色の車体。衝撃。途切れる意識。目が覚めたら白い部屋。白い人。小さな提督。はじめまして、われわれは火星からやってきた・・・・・・。

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