パンくずと彼女
「うるさい、バカ!」
朝の公園に似つかわしくない罵声が響いた。ジョギング中の主婦も、犬の散歩中の老人も、ささやかな朝のひとときを邪魔された人々は、公園の中央にある小さな噴水に目をやっていた。
そこでは、若い女性がスマートフォンを耳に当てて会話をしていた。といっても一方的に彼女がまくしたてているだけで、思いつくかぎりの罵詈雑言をスマートフォンに吐きだしていた。
僕は一瞬だけそちらに目をやったあと、すぐに視線をおとした。
手に持ったビニール袋からパンくずをひとにぎり取り、足元に撒くと、すぐに数羽のハトがやってきた。二本の細い脚で地面に降り立った彼らは、首を下げ、パンくずを数度つついたあと、それを口にした。早起きをして公園にいるハトにパンくずを与える。それが僕の日課だった。
もう一度、ビニール袋に手をいれると、僕が座っているベンチに重さがうまれた。となりに目を向けると、長い黒髪と端正な横顔があった。
さきほどまで、噴水の近くでスマートフォンに叫んでいた女性だった。長いまつげがかすかに震えている。目も充血していた。
僕は視線を足元に戻して、ふたたび、パンくずを撒いた。
「ねえ」
声をかけられたのは、近くにいるハトが首を上げ、きょろきょろと左右を見渡したときだった。
「それ、なにをしているの」
「ハトに餌をあげてる」と僕はこたえた。
「ふうん、変わった趣味ね」
凛とした声はかすかに揺れていた。泣き喚きたいのを押し殺している、そんな我慢の震えがその声色のなかにあった。
「それ、楽しいの?」
僕は、彼女のほうに顔を向けた。
「どういう意味かな」
「べつに他意はないわよ。ただ、餌をあげてるあなたの顔が、まるで、パンくずを撒いたらどれだけのハトがやってくるのか実験してるみたいだったから」
実験か。たしかにそうかもしれない。見返りを求めるわけではなく、感謝されるためでもなく、ただ意味もなく、毎朝ハトに餌を与え続けているのは、ある種の実験にうつるかもしれない。
そのことを告げると、ふうん、あなたってただの変わり者じゃなくて、とても変わってる人なのね、と彼女はいった。
ふたりの前を、ランナーの集団が通りすぎていったあと、声をかけられた。
「なにも訊かないんだ」
「なにが?」
「私のこと。さっき、怒鳴っていたでしょう」
「そうだったかな」
「ウソ」声は真剣だった。「あなた、私のこと見てたじゃない。一瞬だけだったけど、はっきりとわかったわ」
「きみは、なにかあったか訊いてほしいの?」
たずねると、沈黙がかえってきた。話したいけど話したくない。訊いてほしいけど訊いてほしくない。そんな相反する感情が、まるで複雑に絡んだ糸のように彼女の顔のなかにあった。
僕はいった。「ただの置物だと思えばいい」
「どういうこと?」
「いまの僕は、ハトに餌をやるだけのただの置物だ。相づちもうたないし、途中で話をさえぎることもしない。ベンチに座っているオブジェのひとつにすぎない」
「なるほど」彼女はほほえんだ。「それじゃあ、これからひとりごとをはじめるわ」
さっきの電話の相手、誰だと思う。あ、オブジェだからこたえられないのか。じつはパパからなの。ほんのちょっと旅行しただけなのに、いまどこにいるんだ、早く帰ってこい、さっさと戻ってこい、ってうるさくて。それで私も頭にきちゃって、怒鳴り合いになっちゃったの。パパの顔なんてもう二度と見たくないって叫んだら、それならおまえは勘当だって、言い争いになっちゃって。まあ、無断外泊した私がわるいのだけれど、それにしても、パパのほうもいいかたがあると思わない?
最後に問いかけられて、沈黙を貫いていると、ねえ、聞いてるの、と彼女の鋭い声がとんできた。
「いまの僕はただの置物だよ」
「あなた知らないの。いまの時代、オブジェだって光って動いて会話したりするものなのよ」
おもわず苦笑がもれた。
「僕は、娘をもった父親の気持ちはわからないけど、きっと心配なんだと思う。それがときにきつい言葉になったんじゃないかな」
返答はなかった。彼女の顔はパンくずをつつくハトに向けられている。トーンダウンしていた。一気に打ち明けたおかげで、落ち着いてきたのかもしれない。じっさい、そのとおりの言葉を口にした。
「わかってるのよ、そのくらい。パパは大切にしてくれる。まわりの人も親切にしてくれる。私がとても恵まれている環境にいるのはわかっている。でも、それがひどくいやなの。おまえはまだ子供なんだっていわれているみたいで。ひとりで旅行にいけるくらい大人なのに」
「親からすれば、いくつになっても子供は子供なんじゃないかな」
「それもわかってる。その心配が嬉しくもある」彼女は晴れやかな顔で空を見上げた。「結局、わがままなのよね。大人になりたい自分と、子供のままでいたい私が、まるで磁石のように反発しあっている。その折り合いがつけれずに、こんなところまできてしまった。ねえ、私も、ハトに餌をやってもいいかな」
「どうぞ」
僕からビニール袋を受け取った彼女は、手のひらいっぱいにパンくずをつかむと、それをおもいきり投げつけた。まるで節分の日、鬼に扮した大人に豆を投げる子供のように。あるいは、溜まったストレスをすべて発散させるかのように。
勢いよく投げられたパンくずにおどろいて、ハトたちがあわてたように飛び立っていった。白や灰色の羽が一斉に羽ばたいていった。
「ねえ」ビニール袋を僕に返しながら彼女は問いかけた。「野生の動物に餌を与える人間の心理って知ってる?」
首をふった。
「承認欲求。だれかに認めてもらいたい。だれかに誉めてもらいたい。その思いが歪んでかたちになってあらわれたのが、餌付け行為らしいわ。餌を与えれば、それだけ動物がやってくる。それを見て、自分は誰かのために行動していると錯覚して、その行為そのものに陶酔する。あなた、毎日、餌やりをやっているのよね。よほどむごたらしい日常をおくっているんじゃないの」
はっきりとした物言いに苦笑がもれた。
首をふった。「そこまでひどくはないさ。まあ、多少はみじめかもしれないけど。それでも、いたって普通の生活をしているよ」
「それなら、ラッキーだったじゃない」
「なにが?」
「普通の生活のなかで、こんな美人に出会えたのだから」
まじまじと彼女の顔を見つめていると、その目尻が徐々に吊り上がってきた。
「なによ。なにか文句があるわけ」
かぶりをふった。「きみが美人なのは認めるよ。ただ、出会えたのがラッキーなのはどうかな」
「ふうん」と彼女はいった。もしかしたら口癖かもしれない。「あなた、偏屈ね。変わり者で偏屈だわ。でも、優しいところもある。私の退屈な話をいやな顔をせずに聞いてくれたことには感謝してる。ありがとう」
最後にとびきり素敵な微笑をうかべて、さよなら、と手をふって彼女は公園から去っていった。まるで嵐が通りすぎていったみたいに、公園に静寂が戻ってきた。いままでとおなじ、そして、おそらくこれからも変わらない日常の光景が、素敵な微笑のあとに戻ってきていた。
その日の夜の報道番組に緊急のニュースが割りこんできた。極秘来日していた月の国の王女さまが、迎えにきたたくさんの護衛とともに帰国する、というニュースが。王女はフラッシュがまばたくなか、報道陣にたいしてこう返答した。
「日本にきた理由ですか? ハトにパンくずを与えにきたのです」
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