にんげんもどき
彼女はやはり屋上にいた。
高校の昼休み。授業が終わるとすぐにいなくなったそのあとを追って、この高校で一番高いところにきてみたら、彼女は手すりに背中をあずけて、その長い黒髪を風になびかせて座っていた。
「やあ」こちらの姿をみつけて彼女はいった。
「やあ」と僕もかえした。
そのまま、一人分のスペースをあけて、彼女のとなりに座る。初夏の屋上には爽やかな陽射しがふりそそぎ、透明な光が世界を照らしていた。
僕は購買で買ってきた菓子パンの袋をあけて、あんぱんを食べはじめた。屋上には、ほかのクラスの生徒の姿もある。爽やかな陽気にさそわれて昼寝をしている生徒もいた。
不意に、かすかに空気が揺れた。となりに目を向けると、彼女が小さく頭をふっていた。リズムを取っているような動きでもあった。両耳から伸びた黒くて細い線が、彼女の手のなかにあるスマートフォンとつながっている。小さな頭が揺れるたびに、あでやかな黒髪のなかにある光沢が流れて、それをながめていると、こちらの視線に気づいた彼女と目が合った。
「なにを聞いてるの」僕はたずねた。
「一緒に聞いてみる?」ほほえんだ彼女がイヤホンのひとつを差し出してきた。
それを受け取り、自分の耳にいれる。距離が近くなった。長い睫毛がゆれている。なびく黒髪からは甘い香りがした。
片耳からは激しい音楽が流れている。鼓膜をつんざくようなそれはロックだった。叫ぶようなボーカルの声は甲高い。女性の声だ。
「どうだった?」彼女がたずねた。
「いいんじゃないかな」
「無理しなくていいよ」声にはおかしさの響きがあった。「こんな音楽、だれが聞いたってよくないもの。ロックを名乗ってるだけの、ただのうるさい音楽」
「でも、きみは好きなんだろう」
「そりゃあね。自分でやってるんですもの」
おどろいて彼女の顔に目をやると、いたずらが成功した子供の笑顔があった。
「このバンドのボーカル、私なの。おどろいた?」
「おどろいた」僕はいった。「きみがこんな音楽をやっていたなんて。あ、もちろん、わるい意味じゃなくて」
「いいよ。わかってる。あ、そうだ。これ、あげる」
ほほえんだ彼女が、一枚の紙切れをスカートのポケットから取りだしてきた。片方のイヤホンをかえして、そのチケットを受けとる。デフォルトされたコウモリのイラストの上に、にんげんもどき、と印刷されていた。
「私たちのバンド名なの」彼女はいった。「来週の土曜日、ライブがあるんだ。よかったら観にきてよ」
いけたらね、と返事をすると、ほほえんで片目をとじた。それはとても素敵なウインクだった。
ライブハウスは熱気につつまれいてた。
地下の狭い空間に人々が密集している。ライトが当たっているステージでは男性の五人組バンドが演奏をしていた。ただ叫んでいるだけの――すくなくとも僕にはそう聞こえる――ボーカル、不協和音のような、ただうるさいだけの激しい音楽、まるでなにかに取り憑かれたように頭を上下する楽器隊。正直、なにがいいのかまったく理解できないが、それでも観客たちは腕を上げて一緒に叫んでいる。僕がいるライブハウスの一番奥からはそれが展望できた。価値観の違いがこの空間にはあった。
うるさいだけの演奏に頭が痛くなるのを感じながら、ため息を吐く。しばらくして、そのバンドの演奏が終わった。観客が歓声を上げるなか、僕もおざなりの拍手をした。五人組が声援にこたえるように手をふって舞台袖に消えていった。ステージの照明が落とされ、室内が暗闇につつまれる。ややあってから、ふたたびライトがともった。それと同時に舞台袖から三人組の男が登場してくる。揃えたように黒のスーツの上下を着て、ひとりはモヒカンで、あとのふたりは緑色の髪を長く伸ばしていた。
モヒカンがステージ中央の後方にあるドラムに移動して、緑髪のふたりがそれぞれの楽器――ギターとベースを持ってステージの左右に位置する。
そのあと、最後に彼女が登場してきた。
きょう一番の歓声が沸いたが、僕はおどろいていた。黒のヘッドドレス。白のレースやフリル、リボンに飾られた黒色のドレス。膨らんだスカートの下には、編み上げの厚底ブーツ。それは初めて見る格好だったが、メイクのせいか、ゴシックロリータ衣装の彼女はいつもより妖艶に思えた。
大きな足音を立ててステージの中央まで移動して、そこで足を止める。センターの彼女を中心に楽器隊が三角形に配置されていた。目の前のマイクスタンドを優しく握り、彼女がなにかを囁いたあと、ドラムがスティックを叩いてリズムをつくる。
演奏がはじまった。
それは――ひどい演奏だった。素人にもわかるくらいリズムもテンポもバラバラで、まるでそれぞれがソロプレイをしているように音が噛み合っていない。屋上での彼女の言葉を借りるなら、ロックを名乗ってるだけのただのうるさい音楽だ。そのなかで彼女の声だけが耳にすんなりとはいってきた。キーの高い歌声を聞いているうちに、うるさいだけの演奏も、不思議と耳の奥で合わさってきた。バラバラな音楽がひとつになっていく感覚。僕もまわりの観客のように盛り上がろうとした瞬間、それは起こった。
激しくドラムを叩くモヒカン男の、そのモヒカンがまるで意思を持っているかのように蠢き始めたのだ。いや、勝手に動くそれは意思を持っていた。モヒカンの先端が赤く太いものに変化していた。吸盤のついている八本のそれはタコの足だった。モヒカン男の頭がタコの足に変わっていたのだ。
ステージの左右にいるギターとベースにも変化があった。彼らの、長い緑髪のさきから赤くて細長いものが出入りしている。それは舌だった。ヘビの舌。ふたりの髪は無数のヘビに姿を変えて、まるでギリシャ神話のメデューサのようになっている。
彼女にも変化があった。まず耳が長く鋭く伸びている。目の色は血を連想させる深紅に変色し、そのまわりは闇のような黒いアイシャドウ。こめかみからは、なにかが飛び出してきた。大きくカーブするかたちのそれは、灰色の角だった。顔の左右からヤギのような鎌状の角が生えていた。
変貌したバンドを気にすることなく、観客は盛り上がっている。いや、むしろ、それがさらに歓声をヒートアップさせていた。
演奏が激しくなり、彼女が大きく両手をひろげた。
その瞬間、背中から黒く巨大なものがカーテンのように広がった。それは翼だった。コウモリのような黒い翼。しかしそのサイズはコウモリのそれとは比べ物にならないほど大きい。人ひとりが隠れるほど巨大な翼だ。そのなかから無数の塊が飛び出してくる。黒いそれはコウモリだった。ライブハウスの低い天井を、大きな塊と化したコウモリの群れが飛び回っている。タコの足と、ヘビの頭と、ヤギの角と大きな翼、無数のコウモリ。激しいロック。地下のライブハウスは、おどろおどろしい異界の世界へと変貌を遂げていた。
不意に、彼女と目が合った。微笑のあとでその赤い目の片方がとじた。素敵なウインク。そこで僕は思い出した。彼女の、このバンドの名前。
にんげんもどき。
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