人魚の嘘
「私、人魚なの」彼女の声はひどくかすれていた。
大学の食堂。早い時間のせいかあまり学生の姿はない。僕たちが座っている四人組のテーブル席も僕と彼女のふたりしかいなかった。
「ふうん」と僕はいった。「でもきみは、二本の足があるね。人魚には魚の尾ひれがあるんじゃないの」
「美しい歌声と引き換えに両足を手に入れたのよ」彼女は自分の喉を指差した。「これはそのときの代償なの」
とても綺麗な顔立ちに不釣り合いなひどくかすれたしゃがれた声。そんなアンバランスな彼女と出会ったのは、この大学に入学してすぐのときだった。
昼の食堂は学生であふれていて、入り口には行列もできていた。ほとんどのテーブルが相席で、トレイを持った学生たちがハイエナのように空いている席を探し回っている。僕が座っている壁際の二人組のテーブル席は、ちょうど対面が空いていたが、そこが見つかるのも時間の問題だろう。じっさい、すぐに声がかけられた。ここ、あいているかしら。頭上からの声はひどくかすれていて、驚いて顔を向けると、とても美しい顔があった。それが彼女との出会いだった。
「どうして人間になろうと思ったの?」フォークにスパゲッティをからませ、僕はたずねた。
「サンドイッチがおいしそうだったの」こたえる彼女のまえにはハムサンドがあった。「釣り人が食べているのを見て、私も食べてみたいと思ったの。だって海のなかにはあんな食べ物ないんだもの。毎日毎日、海藻ばかりで飽き飽きしてたの」
「それで、サンドイッチの味はどうだった?」
「まあまあね。美味しくはあったけど、声を犠牲にすほどのものじゃなかったわ」
「後悔してる?」
「いいえ」彼女は首をふった。「もともと人魚の生活には退屈してたから、いい機会だったの。みんなで海底まで競争したり、岩礁に座って歌をうたうのも楽しかったけれど、毎日おなじことをしていたら、どんなに楽しくても退屈になってくるわ」
彼女の話はそのしゃがれた声のせいで聞きづらく、窓を叩く雨がさらに拍車をかけていた。いまは梅雨の時期だった。彼女はTシャツにジーンズというシンプルな服装だったが、そのシンプルさがショートカットとあいまって彼女の美しさを際立たせていた。
「人魚はどうやって生まれてくるの」僕はたずねた。
「交尾をして。人間の言葉ではセックスかしら」
僕は苦笑した。「そうじゃなくて、赤ん坊として生まれてくのか、卵として生まれてくるのかってこと」
「ああ」と彼女はうなずいた。「卵よ。人魚は、生物学上は魚類だからね。珊瑚の影にたくさんの卵を生むの。でも孵化するのはほんの一部。大半はほかの魚に食べられて死んでしまうの」
「きみは生き残ったわけだ」
「そうね」彼女は哀しそうに視線をおとした。「私の兄弟姉妹は孵化するまえに食べられてしまった。ひとりだけ孵化した姉さんも子供のときサメにやられたの。そのせいか、私が人間になるといったとき、両親はひどく悲しんだわ。とても可愛がられていたから。仲のいい友達は羨ましがっていたけど、ママは泣きじゃくっていたわ。行かないで、行かないでって」
彼女の顔はハムサンドに向かれていたが、その瞳はべつのものを映していた。それは人魚時代の過去かもしれない。もう戻らない季節に思いを馳せているのかもしれない。フォークにからませたスパゲッティは冷たくなっていた。沈黙がおとずれた。そのなかで最後のハムサンドを食べ終えた彼女が紙のナプキンで口をふいた。いつのまにか食堂は学生であふれていた。
「もうこんな時間」腕時計に目をおとして彼女は立ち上がった。人混みをひどく嫌っているのだ。
「いまの話」と僕はたずねた。「どこまでが本当?」
「あ、バレてた?」おかしそうに彼女はぺろりと舌を出した。いたずらが見つかってもわるびれない子供の顔がそこにあった。「いまの話、全部ウソ。すべて作り話なの。信じたかしら?」
首を横にふった。
「でもね、ひとつだけ真実がある」彼女はこちらに手のひらを向けてきた。「それは、私が正真正銘の人魚ってこと」
広げられた手のひらの、指と指のあいだに半透明な薄い膜がつながっていた。水かきだった。つくりものではない本物の水かきが彼女の指のあいだに存在していた。
「それじゃあ、またね。バイバイ」
いたずらが成功した子供の無邪気な笑顔をうかべて、ひらひらと手をふりながら彼女は食堂から去っていった。
あとに残されたのは、呆気にとられた僕と、冷えて固まったスパゲッティだけだった。
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