アリス

 真夜中にアリスは目を覚ました。

 とうぜん部屋のなかは暗い。カーテンのあいだから月のひかりが差し込んでくるだけだ。どうしてこんな時間に起きたのかしら。ふかふかのベッドのうえでアリスは思った。いつもはお母さまが起こしにくるまで眠っているのに。きっとお昼寝をしすぎたせいだわ。聡明な少女がそう結論づけたとき、かすかに物音が聞こえてきた。

 クローゼットのまえにちいさな影があった。ふたつの耳が長くのびているその生き物はうさぎだった。それもただのうさぎではない。チョッキを着ていて、二本の後ろ足で立っていて、その丸くて小さい手に不釣り合いな大きな懐中時計をにぎっている。

「あなたはだれ?」

 小声でアリスが話しかけると、うさぎはびっくりしたように少女のほうに顔をむけ、それから開けっ放しのクローゼットのなか、そこに収納されているたくさんの服のなかに飛び込んでいった。

「まって!」

 アリスはベッドから飛び起きると、そのあとを追ってクローゼットのなかにダイブした。

 一瞬の暗闇のあと、少女の身体は森のなかにあった。

 立ち並び樹木に、その枝のあいだから射し込む陽射し。風が吹くと落ち葉が舞って、木々がざわめいて、草のにおいが鼻をついた。

 ここはどこだろう。わたしは部屋のなかにいたはずなのに。少女があたりを見渡すと、前方にあのうさぎの背中があった。うさぎはこらちを振り返ったあと、逃げるように駆けだした。まって。アリスはすぐにそのあとを追った。

 パジャマ姿のまま、森のなかを走る。

 両親に内緒で家を出た。いけないことをしているうしろめたさはあった。だが未知の出来事にたいする興奮と期待のほうが、少女のこころのウエイトを大きくしめていた。

 しばらくすると、目のまえに白いひかりがひろがって、そのまぶしさにおもわず目を閉じた。

 足を止めて、ゆっくりと目を開けると、そこは森ではなくなっていた。

 暗い世界。あたりは真っ暗だが、遠くではちいさいなにかが何度もちかちかと輝いている。灰色の地面は砂におおわれていて、あちこちに大小のくぼみができている。ここはどこだろうか。うしろを振り返ると、森はなくなっていた。それどころか、木の一本、草さえも生えていない。さきほどまでの興奮が不安に変化していく。わたしは帰れるのかな。一生、ここから出られなかったらどうしよう。お母さま、お父さま・・・・・・。

 少女の胸が不安でいっぱいになったとき、奇妙な音が聞こえてきた。かすかな期待をいだいてそちらのほうに移動する。歩くたびに砂が舞い上がった。

 そこにいたのは二匹のうさぎだった。

 二匹のあいだには、木製の丸い箱のようなものがある。底の浅いそのなかにはパン生地のようなものがはいっている。後ろ足だけで立っているうさぎが、自分の身長ほどの大きなハンマーでそのパン生地のようなものを上から叩き、しゃがんでいるもう一匹のうさぎが、ハンマーが持ち上げられているあいだにパン生地をこねている。二匹はリズムよくその動作を何度もくりかえしていた。

「あの」ややあってからアリスはたずねた。「なにをしているの?」

「もちをついているのさ」ハンマーを持ち上げたうさぎがこたえた。

「きょうは十五夜だからね」ともう一匹のうさぎがつづけた。

「どうして、ジュウゴヤだともちをつくの」

「それが仕事だからさ」

「もちをつくのが?」

「そうさ」ハンマーを振り下ろしてうさぎはいった。「十五夜にもちをつくのが、われわれの唯一の仕事なのさ」

 話しながらもうさぎたちは共同作業をつづけていた。なにもない暗い世界にもちをつく音だけが響いている。ぺったん。ぺったん。


 その日の夜、お月見をたのしんでいた人々は奇妙な光景を目撃していた。月のなかで餅つきをするうさぎのそばに、ひとりの少女がたたずんでいる姿を。

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