第4話
復讐。
本当に、そんなことが自分にできるのだろうか……ユキは洗面所の鏡を前に自問する。
アイナと過ごした時間は何処か現実感が希薄で、夜が明けてみると全てが夢だったのではないかとさえ思えてくる。しかし、アイナの肌の温もりは確かな実感を伴って自分の中に残っているし、何よりも両手に巻かれた血の滲む包帯と、いつまでも収まる気配のないジンとした痛みが現実であったことを証明している。
(これで契約は完了よ)
昨夜、二人だけで交わされた契約の儀式の記憶が蘇る。アイナは不思議な記号の刻まれた、湾曲した刀身を持つナイフでユキの両手の甲に契約の刻印を刻み込んだ。麻酔などがあるはずもなく、痛みと出血は相当なものだったが、ユキがこれまでに受けてきた心身の痛みに比べれば大したものではない。
(契約の印をその身に刻み込んだ者が怒りと憎悪をもって召喚の呪文を唱えた時『星からのもの』が舞い降りてくるの。その印がある限り『星からのもの』は貴女の意思に従って復讐を果たしてくれるわ)
ユキにはアイナの言う『星からのもの』というものがどういった存在なのかはわからない。果たして、魔術などというものが現実に作用するものなのか…….しかし、アイナはユキを初めて人間として受け入れ、力を貸すと言ってくれたのだ。だからユキはアイナの言葉を信じることに決めた。もし何も起こらなくても別に構わない。その時は今度こそ自分で命を断てば済む話だ。
ユキは制服に着替え、数日ぶりに学校へと向かった。電車に乗り、同じ制服の生徒を見かけるたびに動悸がして、背中にじわりと不快な汗が滲む。今すぐ逃げ出したい衝動は校門を前にすると最高潮に達したが、何よりもアイナを失望させたくない一心で、歯を食いしばりながらユキは進んでいった。
ユキが教室の前に立ったのは、朝のホームルームが始まるちょうど十分前。大きく深呼吸をしてから扉を開けると、その瞬間、賑やかだった教室は嘘のように静まり返った。
無言で自分の席に向かおうとするユキの前に立ち塞がったのは、もちろん『女王』たるアカネだった。
「おはよう、ヤリマンの杉野さん」
酷薄な笑みを浮かべ、品性の欠片もない侮蔑的な言葉を投げかけながら、アカネはユキの眼前にスマートフォンの画面を突きつけた。そこに表示されていたのは、男たちに凌辱される自分の無惨な姿。無理矢理記憶から引き摺り出される悪夢にユキの血の気が引いていく。
「ほら、よく撮れてるでしょ? 今、ちょうどこれを鑑賞しながら皆さんであなたの事を話していたところなのよ……こんな下品でみっともない姿まで人前に晒して、それでも登校してくることができるなんて、どこまでも、恥知らずで図々しい人なのね、ユキさんって」
ユキは何も答えず、ただ上目遣いにじっとアカネを睨め付けている。その目つきが癇に障ったのか、アカネはいきなりユキの頬に平手打ちをくらわせた。出し抜けに殴られた格好のユキはよろけ、壁に肩をぶつけて呻き声を上げる。
「あなた、いい加減に……!」
アカネの言葉が途切れたのは、ユキの漏らしていたのが呻き声などではなく、意味不明の言葉であることに気付いたからだ。
「ティビ・マグナム・インノミナンドゥム・シグナ・ステラルム・ニグラルム・エト・ブファニフォルミス・サドクァエ・シギラム……」
決して大きくはないその声が、どういうわけか教室全体に響き渡っている。それは地の底から轟くような、あるいは飢えた獣が獲物を威嚇するような声だった。
「な、何よこいつ!」
本能的な恐怖を覚え、アカネは後ずさる。
微弱な振動として時空に干渉しながら星の涯てにまで伝わり、小惑星帯の狭間で微睡んでいた存在にまで送り届けられたユキの呪文が終わると、教室に沈黙が訪れた。何が起きるわけでもなく、生徒たちは互いに困惑した顔を見合わせている。その中で、最も早く我に返ったのはアカネだった。ユキの呪文を単なるハッタリだと判断したアカネは、なおもユキを罵倒するために進み出る。
「……来る」
ユキが呟いたその時、教室のガラスが一斉に、一枚残らず砕け散った。降り注ぐ破片から逃れようと、生徒たちが悲鳴を上げながら逃げ惑う。その一人の身体が、不意に宙に浮かびあがった
「え? なに? なによ!」
柴原リエカというその少女が空中でジタバタともがくのを呆然と見上げる同級生の前で、やがてその身体がゆっくりと捻れていった。上半身は右に、下半身は左に、まるで雑巾を絞るような捻れ方が苦痛を呼び、リエカが上げた凄まじい叫び声はやがて全身の骨が砕け散る音と共に途絶えた。
折れた骨の尖端があちこちの皮膚を突き破って飛び出し、鮮血が噴水のように撒き散らされる。だが不思議なことに、噴き出した血液はほとんど床にまでは届かなかった。ジュルジュルという啜り上げる音とともに、どういうわけか鮮血が空中を流れていく。
「な、何よあれ……」
呆然と呟くアカネの眼にも、ようやくその姿が見えるようになってきた。吸い上げた血液が透明な身体を流れることでまず可視化されたのは長大な触腕だった。先端には牙のようなトゲの並ぶ吸盤が無数に並んでおり、どうやらそこから血液を摂取しているらしい。
しかも触腕は一本ではなく、次々と生徒たちが捕獲され、吸い尽くされ、投げ捨てられていった。その惨状を目の当たりにして我に返った生徒たちが泣き叫びながら扉に殺到するが、どういうわけか扉は微動だにしない。パニックに陥る彼女たちを嘲笑うかのように不可視の触腕は次々と獲物を捕獲し、生命力に満ちた若い血液を貪欲に吸い尽くしていった。
*作中の呪文はロバート・ブロック「星から訪れたもの」(大瀧啓裕訳 青心社刊「クトゥルー 7」)のものを使用しています。
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