第3話
村川ユキが生を受けたのはごく普通のサラリーマン家庭だった。容姿も成績も中の上といったところで際立った特徴のないユキだったが、他人に対して平等に優しく接することのできる性格のおかげで友人は多く、明るく穏やかに育っていった。
そんな彼女の人生に転機が訪れたのは中学3年に進級したばかりの春。両親の交通事故死がきっかけだった。
他に身寄りもなく、天涯孤独の身となったユキに手を差し伸べたのは父の親友であり、新進気鋭の実業家として頭角を表していた杉野タツキという男だった。子供のできなかった杉野夫妻は喜んでユキを家族に迎えてくれたのだが、両親の死によって茫然自失に陥っていたユキからすれば、何もかもが自分の知らないところで進んでいたことに困惑するしかなかった。それでも自分を受け入れてくれた杉野夫妻への恩を返すため、ユキは持ち前の前向きな性格を発揮して良き『娘』となることを決めたのだ。
杉野家の養子となったことで引っ越しを余儀なくされたユキは夫妻の薦めもあり、ある名門女子高へと進学することとなったのだが、その選択が彼女を地獄へ突き落とすことになるとは、その時点では誰も想像していなかったに違いない。
ユキの同級生、華宮アカネは生まれた時から『女王』だった。
傍流とはいえ日本有数の財閥を支配する一族に名を連ねる家系には政治家が多く、かつては国務大臣を輩出したこともある家柄に生を受けたアカネにとって『平民』の家に生まれたユキなどは本来、歯牙にかける価値すらない存在だったに違いない。だが、一代で財を成し、メディアへの露出も少なくない『時代の寵児』の養女であるという話題性と、両親を突然の交通事故で失っているという悲劇のヒロイン性で否応なく注目を浴びるユキは、アカネにとって決して快く思える存在ではなかった。
ユキにとって不幸だったのは『平民』の出であるが故に、上流階級のルールに疎かったことだった。彼女は持ち前の公平な性格で、あろうことか『女王』であるアカネに対して普通の同級生として接してしまったのである。
平民と同等に扱われる屈辱など『女王』に耐えられるはずもなく、すぐさまプライドを傷つけられたことに対する報復がはじまった。陰湿極まりない無視や陰口から始まったユキへのイジメはエスカレートし、机に落書きされる、持ち物が破壊される、汚水を浴びせられる、といった悪質な行為から直接的な暴力にまで発展していくのに要した時間はほんの二週間ほどだった。
未成熟な精神の持ち主に芽生えた残酷な衝動は留まることを知らず、制御すべき大人たちは『女王』の権力を前に萎縮し、その全てを看過することで自らの身を守ることを選んだ。そんな状況にあっても恩義ある両親に心配をかけたくない一心で気丈に振る舞うユキの姿がますます気に入らず、アカネはユキの人生を徹底的に破壊することを決めた。
この世に権力と暴力ほど相性の良いものはなく、身の回りの大人を見て育ってきたアカネがもっとも歪な形でそのやり方を真似たのは当然の成り行きだったのだろう。アカネは金と女(もちろん自分ではなく)の力で支配下に置いていた男たちを扇動し、ユキを襲わせたのだ。
人間というより野獣に近しい性質の男たちは飼い主の許しが出ると欲望にまかせて獲物へと殺到し、思うがままにユキを蹂躙した。肉体と魂を汚し、引き裂く冒涜的な行為は夜を徹して行われ、男たちは声も涙も枯れ果て、全身にタバコの火を押しつけられた火傷の痕だらけのユキを路上に放置していずこともなく去っていった。
自らの娘の身に起きた惨劇にショックを受けたのは杉野夫妻、特に父のタツキだった。実業家として成功し、さらなる高みを目指すため政財界の大物との姻戚関係を目算していた彼にとって、献上品だとして大切に育ててきたユキが『傷物』となってしまったことは致命的なダメージだったのだ。
最早お前の価値は石ころ以下だと父が宣告し、母が失望の呻き声を上げる。彼らの嘆きは、彼らにとって自分が娘などではなく、欲望を満たすために必要な『駒』でしかなかったことを嫌というほど思い知らせた。誰にも愛されず、誰にも必要とされなくなった『駒』である自分が生きている理由はもうどこにも見出せず、ユキは死を選択したのだ。いや、選択したのは『死』ではなく『無』なのかもしれない。
存在する価値のないものは、最初から存在するべきではなかったのだ……
もう、夜になっていた。
ベッドの中で長い話を終えたユキは、アイナの胸に顔をうずめて噎び泣いている。
本当は、死にたくない。もっと生きていたい。
しかし、誰もそれを許してはくれない。
ライターで焼かれ、短く切らざるをえなかったというユキの髪を撫でながら、じっと話を聞き続けていたアイナはやがて、静かに言葉を発した。
「辛かったわね、ユキ。でも、もう大丈夫」
ユキが顔を上げると、微笑むアイナと視線が合った。アイナはユキの額にキスをすると、ベッドを降りて彼女を見下ろした。冴え冴えとした青白い月明かりに浮かびあがるアイナの裸体は、ユキの目には天使のように美しく写った。
「私が力を貸してあげる……貴女の尊厳と、人生を取り戻す力を」
アイナは書棚に歩み寄ると、分厚い一冊の本を取り出してテーブルの上に置いた。革と金属で装丁された本はかなり古いものであるらしく、独特の黴臭さがプンと漂ってくる。表紙に書かれた題名は、ユキには読み取ることができない異国の文字だった。
「それは……?」
「デ・ウェルミス・ミステリィス……十六世紀の魔術師、ルドウィク・プリンが記した魔導の書よ」
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