第2話
「廃ビルだから誰にも迷惑はかからない、と思っていたのかしら? 玄関先に血塗れの死体が落ちてるだけで充分迷惑だわね……私としては」
テーブルの上に二人分の紅茶を置きながら、アイナはため息をついた。
アイナの登場で自殺のタイミングを失ってしまったユキは、アイナの『自宅』に招かれた。このビルの最上階が自宅なの』というアイナの言葉通り、そのフロアには最低限、生活に必要なものが揃っていた。本当に、最低限だけ。
床も壁も、打ちっぱなしのコンクリートが剥き出しになった無彩色の空間に置かれた調度品といえばベッドと、テーブルと椅子が一組。他にあるのは壁際の簡素な本棚とシステムキッチンぐらいという、年頃の女子らしい華やかさとはまったく無縁の部屋。それなのに、目の前の黄崎アイナという少女にはひどく相応しいように思えるのがユキには不思議だった。
テーブルをベッドサイドに移動させ、ユキをベッドに座らせたアイナは一脚しかない椅子に座って脚を組む。短い制服のスカートから伸びる優美な曲線に見惚れかけて、ユキは慌てて目を逸らした。
「貴女が自ら命を絶とうとした理由……それは貴女の姿を見ればだいたい推測できるわ」
ティーカップを持ち上げ、豊潤な芳香を漂わせる液体で唇を湿してから、アイナは話し始めた。
「その短い髪は貴女の意思で切ったものではないのでしょう? そして手足の痣や切り傷……だけど、貴女がスポーツに汗するタイプだとは思えない。と、いうことは……」
アイナの切れ長の眼が真実を切り開くナイフの輝きを帯びているような気がして、ユキは思わず身構えた。
「貴女は不当な暴力に晒されている。そして、それに耐えられずに命を絶とうとした」
図星を突かれて、ユキは思わずアイナから視線を逸らした。傷ついた心を弄られまいとする無意識の行動であったのだが、それが逆にアイナの洞察が正しいということを雄弁に物語ってしまったようだ。
「ねえ、もしよかったら貴女のお話を聞かせてくれない?」
アイナの要求に、ユキはゆっくりと頭を振って拒絶の意を示した。
「どうして……初対面のあなたにそんなことを話さないといけないんですか? 勝手にあなたの家の屋上に上がり込んだことは謝ります。でも、だからといって興味本位で私のプライバシーを暴く権利があなたにあるんですか!?」
声を荒げるユキを前に、アイナはそれでも優然とカップを口に運んでいる。ソーサーとカップの底が触れる硬質な音が神経に障って、ユキが眉をひそめた。
「ないわね」
ユキはテーブルを叩いて勢いよくソファ替わりのベッドから立ち上がった。
「これ以上、私に関わるのはやめてください! さよなら!」
激昂するユキを宥めるように、アイナは堅く握られた拳にその手を重ねる。
「……その顔よ」
「……え?」
「その顔が見たかったの。貴女の怒った顔はとても美しいわ」
ウソよ、とユキは呟いた。
「怒りに歪んだ顔が美しい? バカにしないで! こんなの、世界で一番醜い顔じゃない!」
ユキはアイナの手を勢いにまかせて振り払った。巻き込まれたカップが床に落ちて砕け散る。
「いいえ、醜いのは貴女を弄び、尊厳を傷つけながら嘲笑を浴びせる方々の方でしょう。それに比べれば、人間としての感情を真っ直ぐに発露する今の貴女はとても美しいわ」
立ち上がったアイナの指先がユキの頬に優しく触れる。ただそれだけなのに、まるで電気が走ったような衝撃が身体を駆け抜け、ユキは困惑の表情を浮かべた。
「ねぇ、私は貴女の全てを知りたいの。貴女の抱えた悲しみ、怒り、憎悪……その全てを、私に頂戴」
そして、アイナはユキの肩を抱いてその耳元に口を寄せていく。
「貴女が本当に死にたいのなら、その後でも別に遅くないでしょ……? でも、もし心変わりしたのなら、私が貴女に力を貸してあげる」
自らの意に反して、ユキの身体は耳に触れる吐息に敏感に反応している。それをアイナに悟られまいとするユキだったが、その努力が功を奏しているかは彼女自身にも分からない。
「力……力って……?」
「これまで貴女を傷つけてきた者たちに、復讐するための力よ」
「ふく、しゅう……?」
アイナの髪から流れる甘やかな香りと、頸筋を這う唇の柔らかな感触がユキの思考を奪い去り、代わりに澄んだ声がダイレクトに脳を震わせる。全身の力が抜け、へたり込みそうになる身体がアイナに支えられ、そっとベッドに横たえられた。
「さあ、貴女の全てを私に」
唇を塞ぐアイナの唇。素肌で触れ合う太腿の感触。未知の性感に支配され、堕ちゆく意識の中でユキは見た。
アイナの漆黒の瞳の奥に、不思議な黄色い光が揺れるのを。
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