堕天少女

蒼 隼大

第1話

 一段ずつ階段を登り、ようやく辿り着いた屋上が下界と異なる強い風に晒されていることに、杉野ユキは軽く驚きの表情を浮かべた。泥で汚れたスカートがバタバタとうるさくはためく。


 破産したオーナーが失踪だか自殺したとかで姿を消して放置された廃ビルではあるが、汚れてヒビ割れたコンクリートのあちこちにスナック菓子の袋や空のペットボトルが転がっているところをみると時々誰かが入り込んでいるのかもしれない。グルリと周囲を取り巻く金網のフェンスにもところどころに破れ目があるようだった。


 最初は駅か踏み切りで電車に飛び込もうと考えたユキだったが、無関係な乗客に迷惑をかけるのが忍びなくて断念した。他に誰にも迷惑をかけない方法を考えたのだが海や山に入ると何年も発見されないままとなるかもしれず、かといって近くの川や池で誰かに助けられて死に損なうのも困る。


 確実で、極力他人に迷惑をかけず、できればすぐに発見してほしい……という条件を勘案した挙句、ユキが己の死に場所として選択したのは不況の果てに見捨てられた廃ビルだった。



 グルリと見て回り、ユキは金網に通り抜けられそうな破れ目がある場所を見つけた。両手で押し広げながら身体を押し込み、腕に引っ掻き傷を作りながらもなんとか通り抜ける。


 ゴオッ、と風が通り抜けていく。足場の幅は三十センチほどだろうか。見下ろせば人足も絶え、そのほとんどが営業を諦めたシャッター街だ。ユキの姿に気付いている人はいないだろう。すぐそこに『死』があることを確信し、ユキは目を閉じた。あとはほんの少しだけ、体重を前に傾けさえすれば……


「死ぬの?」


 不意に声をかけられて、ユキは振り返った。



 思わず息を呑むほど美しい少女がそこにいた。手足は細く長く、まるでそれ自体が一個の生き物のように靡く髪は艶々と輝いている。どこの学校のものかは知らないが、黒を基調としたセーラー服を身につけているところを見ると……とてもそうは思えないが……自分と同じ年代の高校生だろう。そう思い至った瞬間、ユキはカァッと耳の辺りが熱くなるのを覚えた。この美しい少女と比べて自分はなんとみずぼらしい事か……短く切られた髪も、痣と擦り傷だらけの手足も彼女のそれとは全然違っている。きっと尻や背中にタバコの火を押しつけられた痕が残っているなんてことはないのだろう。同じ女子なのに、同じ高校生なのにこの差はなんなのだ……悔しさのあまり、またユキの瞳から一筋の涙が流れ落ちた。


「あなた、死のうとしてるの?」


 手の甲で涙を拭いながら、ユキは無言で頷いた。


「そう」


 答えた少女はユキと同じく、金網の破れ目を潜った。スリムな肢体のおかげか、ユキとは違って引っ掻き傷を作るなどという無様なことはしなかった。


「な……なんなんですか? 止めないでください!」

「止めないわ」


 少女は教室の椅子にでも座るかのように屋上の縁に腰を下ろした。落ちたらほぼ確実に死ぬ高さであるというのに、一向に恐れる様子はない。


「……私のことなんて放っておいてください!」


 ユキの叫びに、少女は艶然と微笑んだ。


「そう怒らないで。ちょっとお話しをしたいと思っただけだから……そうね、用が終わったら一緒に飛び降りてあげようかしら」


 平然と言い放つ少女にユキは瞠目した。なんの義理があって見知らぬ自分と一緒に死ぬなどと言い出すのか……ユキには少女の意図がまったく理解できなかった。揶揄われているのかとも思ったが、少女の言葉には妙な真実味があるようにも思われる。


 混乱し、立ち尽くすユキに微笑みかけた少女は「座ったら」と自分の隣を手で示した。訳の分からないまま、ユキは腰を下ろす。何もない虚空に脚を出す瞬間、尻のあたりから背筋にかけてゾワリと突き上げるような不安感を覚えた。


「私は黄崎アイナ。あなたは?」

「……杉野ユキ」


 呟くように答えるユキの手に、アイナの手がそっと重なってきた。ヒンヤリとした肌から、後になってじわりと温もりが伝わってくる不思議な感覚にユキは戸惑いを隠すように俯く。


「……どうして……」


 ユキの消え入り声は、風に乗りながらかろうじてアイナの耳に届いた。


「……どうして、ここにいるんですか?」

「どちらかといえば、それは私からすべき質問だと思うわ。貴女はどうしてここを選んだの、って」


 言ってから、アイナは悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「時々来るのよ、貴女みたいな人……確かに荒れ果ててるけど、このビルは廃ビルじゃないわ。まだ住んでる人がいるもの」


 ユキはハッとして顔を上げた。


「だって、ここのオーナーは失踪したって、ウワサで……」

「前オーナーはね」


『前』の部分の語調を少しだけ強めてアイナは答えた。


「今のオーナーはここに住んでるの……その人は『黄崎アイナ』という名前なんだけどね」


 予想外の言葉に、ユキはただ絶句するしかなかった。

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