Babel 特別短編③/草むしりは人知れず
1
大陸でもっとも古い歴史を持つ魔法大国ファルサス。その領地は広大で――城も当然大きい。
「大きいのはいいんですけど……何ですか、この惨状は……草むしりさぼってるんですか」
雫は隣に立つ男を見上げる。品のある端正な顔立ち。動きやすい麻の上下を着て腕組みをしている青年は、あろうことかこの国の王だ。
城の奥にある中庭で、生い茂る草の海を前に立っているラルスは堂々と返した。
「さぼってはいない。ここは奥宮だからな。普段庭師を入れないんだ。と言っても、放っておくとひどいことになるから、一年に一度は草刈りをするが」
「ああ、じゃあもうすぐ草刈りなんですね。草すごいですもんね」
「いや、今年はお前がいるから草刈りはやめさせた」
「何言ってるんですか、王様。まったく全然意味分からないんですが」
「お前が草むしりするに決まってるだろう。走り込みのし過ぎで寝ぼけてるのか?」
「寝ぼけてませんし、走り込みやらせたのは王様ですからね。お嫌いな人参入りのケーキ食べさせますよ」
強い日差しを手で遮りながら、雫は反論する。
夏休み最初の日に、突然異世界に迷い込んでしまった彼女は、元はごく普通の女子大生だ。だったのだが、今はすっかりファルサスで大人げない王の標的となっている。
「絶対この国に帰る手がかりがあると思ったのに……まさかこんな目にあうとは……」
同行者である魔法士のエリクに助けられ、それなりに苦労して辿りついた魔法大国だが、そこで待っていたのは「不審な異世界人を排除してやる」と張り切ってやまない王だ。隙を見せれば殺されそうになるし、見せなくても容赦ないしごきが降ってくる。
今日のしごきは、どうやら庭の草むしりのようだ。今までの経験から、何を言っても逃れらないと知っている雫は、革の手袋を嵌めながら溜息をついた。
「分かりました。私のために庭師さんの手入れをお断りするなんて、さすが王様ですね。余計な気遣いありがとうございます」
「感激して励むといいぞ。もうすぐ祝祭だから、その前までに終わらせろ」
傲岸に言い放つラルスは、腕組みをしたまま一歩下がる。どうやら今回は、普段の走り込みや剣の手合わせなどと違って、自分が手出しをする気はないらしい。雫は木々の合間を埋め尽くす草を前に、にっこりと笑った。
「では、さっそくやらせて頂きます。あ、外は暑いですし、王様は執務に戻ってくださってていいですよ。育ちのいい方には草むしりなんて難しいですもんね。私が張り切って奉公させて頂きますので、お任せください」
「草むしりくらいできるぞ」
「いえいえ。誰にだってできないことはありますよ。ご無理なさらないでください」
「人参娘、そこの棒をよこせ」
勝手につけたあだ名で雫を呼んで、ラルスは手を差し出す。雫は黙って地面に転がっていた太枝を王に差し出した。ラルスはその枝で、草をかき分け地面に線を引く。
「こっちからこっちは俺で、そっちはお前な。どっちが早く草むしり終わるか勝負だ」
「私、時々この国が心配になります。王様が王様で大丈夫なのかな、って……」
「さっさと始めるぞ。俺が勝ったらお前は城内五十周だ」
「やります」
雫は足下の草に飛びつく。自分で煽って勝負にしたとは言え、城内五十周は辛い。二十七周くらいが体力の限界だ。
雫は手袋を嵌めた指で生い茂る草を抜きながら、王に釘を刺した。
「できるだけ根まで抜いてくださいね。ぶちぶちちぎらないで」
「草がなくなればいいんだろ?」
「よくないです。仕事の丁寧さは速度に影響しますから」
できるなら、一か月後もどれだけ草が戻らないでいるかの成果で勝負を決めたいくらいだ。根が生真面目な雫は、土をかき分け丁寧に根までを取り去りながら、迅速に草むしりを進めていった。
一方、ラルスの方からは、予想通りぶちぶちと力任せの音が聞こえてくる。抜いた草をその辺に投げ捨てる王を見て、雫はやり方を注意しようと口を開きかけた。
だがその時、別の声が背後からかかる。
「――何をなさっているのですか、兄上」
雫の振り返った先、呆れ顔で立っているのは黒髪の絶世の美女だ。
上品な魔法着に身を包み、すらりとした体を庭に佇ませている王妹レウティシアは、草むしりをする兄を見て眉を寄せる。
「執務室にいないと思ったら、また雫を虐めているのですか!?」
「虐めてないぞ。働かせてるだけだ」
「雫には祝祭の準備の仕事もあるでしょう! それ以上に、兄上には仕事が山積みのはずです。早くお戻りになってください!」
「いやでも勝負が……」
「あ、じゃあ私の不戦勝ってことで。あとは任されました」
雫があっさりそう結論付けると、ラルスは子供のように悔しそうな顔になる。だが、執務が立て込んでいるのは事実らしい。王は苦々しさを隠さないまま立ち上がった。
「……分かった。じゃあ人参娘。勝者らしくあとはやっとけ。この先に石像が円状に並んでる広場があるから、そこまでだ」
「承りました。王様はお仕事と城内五十周を
頑張ってください」
「余裕だな」
しれっと答えるラルスには腹が立つが、王であり、ファルサスに伝わる王剣の剣士でもある彼にとっては、城内五十周など大した問題ではないだろう。雫が知る限り、この男が辛そうな顔をするのは、人参の入ったものを食べている時くらいだ。
ラルスは土塗れの手を払うと、妹に睨まれながら城の方に戻っていく。その背を見送りながらレウティシアは言った。
「ごめんなさいね。うちの馬鹿兄が無体ばかり言って」
「平気です。仕事のうちですし。今日中にはやっちゃいますね!」
ラルスを馬鹿だと思っているのは事実だが、さすがに身内がそう言う尻馬に乗って、悪口を並べることはできない。立場的にもこの城に雇われている雫は、あっさりと笑って草むしりに戻ろうとした。
レウティシアがあわててそれを止める。
「あ、もういいのよ。元の祝祭の仕事に戻って。ここには普段誰も立ち入らないし」
「でも、放っておいたら草が増える一方ですよ」
「大丈夫。私があとで焼き払っておくわ」
「やめましょう。私がむしりますから」
レウティシアに任せては、城内に焼け野原が広がりかねない。強硬に請け負う雫に、王妹は不安そうな顔になった。
「でも精霊の広場までは結構あるのよ?」
「精霊の広場?」
雫が首を傾げると、レウティシアは笑って彼女を手招いた。二人は草の生い茂る中、庭の奥へと踏み入っていく。
そうして進んだ木立の先は、小さな広場になっていた。その中心は、土ではなく円状の大きな石板が埋め込まれている。そこだけは草が一本も生えていないのは、直径五メートルはある石板が、まるで一つの岩壁から切り出したかのように継ぎ目がないからだろう。
だが雫はその石板自体よりも、外周に並んでいる十一個の石像に気を取られていた。一か所を除いて等間隔に並んでいる石像は、人の形をしたものや動物をかたどったもの、あるいは何だか分からない抽象的な形のものなどばらばらだ。けれど、形に共通点など全くないにもかかわらず、なぜか全部がどこか似通って見えて、雫は怪訝に思った。
「この像って……」
「これが精霊の像よ。雫、ファルサスの精霊のことは知ってる?」
「あ、旅の途中でエリクに聞きました。昔、魔女の人が王様に嫁いできた時に、連れてきた上位魔族だっていう……」
今は魔法大国で有名なファルサスだが、かつては武の国として知られていたのだ。それを変える切っ掛けになったのが、三百年前にファルサス王家に嫁いできた魔女だ。彼女は当時、十二人の上位魔族を使役しており、精霊と呼ばれる彼ら魔族は、その後大体王家の魔法士に受け継がれることになったという。
何でも知っていた保護者の青年の話を、静宇は思い出す。レウティシアは笑って首肯した。
「その精霊がこれらの像なの。彼らは使役されていない時は、石像に変じてここで眠っているというわけ」
「え、じゃあこれらは全部上位魔族の人なんですか?」
「そうね」
上位魔族の人、という言い方が面白かったのか、レウティシアはくすくすと笑う。
雫は改めて、一番手前にある若い女の石像を眺めた。美しい顔立ちの女は、何もない虚空を見つめている。一見、精巧なただの石像に見えるが、これが本当に、かつては神とも言われた上位魔族なのだろうか。
綺麗に円状に並ぶ石像のうち、一か所だけある空白に、雫は視線を転じた。
「ならあそこは、今使役されてる精霊の場所ってことですか。レウティシアさんにも精霊がいますよね」
「ええ。だから私が死ねば、またあそこに像が戻るわ」
さらりとした返答に、雫は一瞬遅れてぎょっとする。だがレウティシアは何でもないように微笑んでいるだけだ。王族という存在の負う重圧がそこには垣間見える気がして、雫は隠れて溜息を飲みこんだ。
レウティシアは、すらりとした鳥の石像に細い体を寄りかからせる。
「精霊について詳しく知りたかったら、また今度エリクに聞くといいわ。彼はそういう資料も読みこんでいるはずだから」
「エリクに、ですか……」
ここに至るまで共に旅をしてきた青年とは、最近ほとんど顔をあわせていない。だが雫はそれを、お互いやることも向き合うべきこともあるのだからと受け止めている。
だからいずれ、また前のように穏やかな時間を過ごすことができるだろう。雫は顔を上げると頷いた。
「エリクに聞くと、一を聞いて百を教えてくれますからね。覚悟して聞いてみます」
「教え甲斐がある相手だからそうなのよ。元々面倒見がいい人間ではあったけど」
「おかげで異世界で行き倒れなくてすみました」
ファルサスに至るまでの旅路を思い出して雫がそう言うと、レウティシアは喉を鳴らして笑う。そんな王妹の表情は、大人の美しさと少女の愛らしさが同居したものだ。どことなくラルスと似た空気に、雫は感心する。
「レウティシア様も、小さい頃は王様に面倒みてもらったりしたんですか? お二人って仲がいいですよね」
雫自身にも姉妹がいるが、異性の兄弟というのはどんなものか想像がつかない。
レウティシアはその言葉に一瞬瞠目すると、青い目を伏せた。
「小さい頃は、それぞれ世話係がついていたから滅多にお互い会わなかったわね。今は……そうね……もうこの城には、私たち二人きりしかいないから――」
王妹の声は、草が揺れる音の中に溶け消える。そこに垣間見える影は、この国の王家につきまとうものだろう。
現存する国の中で大陸最古、かつ屈指の大国でありながら、直系王族が二人の兄妹しか現存していないという問題。これは、六十年前にこの国の王であった一人の男に端を発している。
王剣を振るい血族虐殺を行った狂王ディスラル――死後も血族間に、疑心暗鬼がもたらす闘争を残していった王を、雫は思い起こした。
レウティシアは、雫の内心を読み取ったように口元だけで微笑む。
「狂王ディスラルの死から始まった内乱は、私たちの親の代には終息したけれど、裏を返せばそこまでは影響があったということだから……。私たちも同じように育てられたわ。でも、血族を疑うのが当たり前だなんて、嫌な話でしょう?」
「それは……」
肯定を口にしたくとも憚られて、雫は口ごもる。王家に起きた悲劇の数々は、未だこの城に小さな影を落としているのだろう。エリクもかつてこの城で、その影を目の当たりにしたのかもしれない。
黙りこんでしまった雫に、だがレウティシアは、軽く手を振った。
「あ、貴女は気にしなくていいの。兄上に同情もしなくていいから」
「それは……王様に同情とか意識しても難しいですが……」
ラルスに同情などしたら、鼻で笑われるのが落ちだろう。むしろこちらが同情してもらいたいくらいだ。だが実際、そんなことはありえない。おそらくラルスと雫は、天敵としてずっと平行線で居続けるのだ。
レウティシアが石像から体を起こす。
「貴女のことも、早く片が付くようにするからもう少し我慢していて。いっそ単なる密偵や暗殺者だったら、話が早くてよかったのだけど。ごめんなさいね」
「いえ……もし私が密偵だったら今頃殺されてますよね。全然よくないですよね」
「あら、言われてみればそうね……」
真面目な顔で顎に指をかける王妹に、雫はラルスとの血の繋がりを感じてげっそりした。
そろそろ草むしりに戻ろうかと思ったところで、使い魔である魔族の少女の声が聞こえる。
「ご主人様! おやつを持ってきましたー!」
「メア」
籐のバスケットを抱えて走ってくるメアは、雫に向かって大きく手を振った。人ならざる緑の髪を結いあげた少女は、二人の前まで来るとぺこりと頭を下げる。
「ご主人様の焼き菓子を詰めてきました。お茶もありますから」
「雫のお菓子?」
甘いものに目がないレウティシアは、期待に表情を変える。雫はつい笑いだしそうになって口元を押さえた。
「よろしかったら、レウティシア様もどうぞ。新作いっぱいありますよ」
「本当!? い、いいのかしら」
「気晴らしで作ってますし、食べてもらった方が嬉しいです! 本当は作り方もそう難しくないんですけど、さすがにレウティシア様はお料理とかしませんよね。厨士の人に伝えてみようかなあ」
今はこの国に滞在しているが、雫はやがて帰る人間だ。いつか別れる日のために、クッキーの作り方くらい残していってもいいのかもしれない。
レウティシアはそれを聞いて、相好を崩した。
「確かに料理をしたことはないけれど、基本教育を修めた魔法士ならある程度作れるはずよ。魔法薬の調合と料理は似通ってるらしいから」
「なんと。じゃあ今度お教えしますね! 材料混ぜて焼くだけの簡単なやつから」
談笑する二人の隣で、メアがバスケットから取り出した敷物を石板の上に敷く。
穏やかな午後は、こうして甘い香りと共に過ぎていった。
2
この城で雫に任されている仕事は、大きく分けて「やってもやらなくても構わない仕事」か「何かあった場合、関わった者が口封じされるであろう面倒な仕事」のどちらかだ。
そして奥宮の草むしりは、どちらかというとその両方に当てはまる。精霊の広場があるそこには、基本的に王族以外は立ち入らない。そしてだからこそ、何かあった時、そこにいた者は処分されてもおかしくない。雫を処分したいラルスとしては、完璧な采配だ。
「そんな完璧さ要らないんだけどね……」
とは言え、立ち入る人間もいないのでは、面倒事も起きる気配がない。雫は草木のそよぐ音だけが聞こえる庭を見回した。
ラルスの気まぐれ九割で回されたのだろう仕事だが、だからといって放置はできない。結局、レウティシアとお茶をした翌日、雫は朝から一人で草むしりを再開していた。
スタート地点から精霊の広場まで少しずつ進みながら、彼女は落ちてくる汗を拭う。
「この国ほんと暑い……」
最近は大分慣れたつもりだが、さすがに外で何時間も作業をしていると体に来る。雫は持ってきた水筒に口をつけると、両手を上げて伸びをした。
そうして作業に戻ろうとしたところで、だが彼女はふっと背後に気配を感じて振り返る。
――そこにはいつの間にか、白い髪を後ろで一つに束ねた女官姿の少女が立っていた。
「うおっ!? び、びっくりした!」
気づかぬうちに真後ろにいた少女に、雫は飛び上がる。どうやら草むしりに夢中になっていて足音も聞こえなかったようだ。少女は雫に向かって一礼した。
「手伝いを命じられて参りました。こんにちは」
「こ、こんにちは……。よろしくお願いします」
驚きはしたが、人手が増えるのはありがたい。ただ気になるのは、相手が線の細い美少女だということだろう。こんな暑い日に草むしりをさせて倒れてしまわないか不安になる。
雫はそこでハッと思い当たると、自分が持ってきた荷物袋を探った。中から予備の手袋を見つけて少女へ渡す。
「あの、結構、指とか切っちゃうから。これ嵌めて手伝ってください」
「分かりました。ありがとうございます」
少女は見間違いかと思うほどささやかに微笑んだ。彼女は手袋を嵌めると、直射日光が降り注ぐ中、隣に並んで草をむしりだす。そんな少女を、雫はついじっと見つめた。
「わたしが、どうかしました?」
凛と響く声。手元を見つめたままそう問う少女に、雫は我に返った。
「あ、いえ。つい見とれちゃって。綺麗な髪ですね」
「ありがとうございます」
ふっと笑う少女の返事に、雫は気恥ずかしさを味わう。草むしりに戻った彼女は、改めて少女に言った。
「何かすみません。私が王様に雑用命じられてるせいで巻きこんじゃって……」
「いえ、これも仕事ですから」
「八割はは王様の嫌がらせな気がするんですが」
「かもしれませんが、それよりわたし、あなたとは一度話してみたかったんです」
「え、私とですか!?」
雫は軽くのけぞる。この城において、突然外からやってきた彼女はある意味有名人だが、いい意味で有名なわけではない。女官たちにはなぜか王のお気に入りと思われているようだが、ラルスとは絶賛冷戦中だ。
思わず乾いた笑いを零す雫に、少女はしかし何を気にした風もなく続ける。
「余所の国からいらっしゃったんですよね。どこからいらしたんですか?」
「あー、ずっと遠くの国です。多分、皆さんご存知ないところで」
「ファルサスには行儀見習いか何かで?」
「いえ。ちょっと事情があって自分の家に帰れなくなっちゃって。それを何とかする方法がないかって調べに来たんです」
異世界から迷い込んだ、ということを伏せて、雫は自分の事情を話す。女官たちが噂を好きなことは知っているが、これくらいは支障がないだろう。雫は長く広がる根を掘っていった。
じりじりと首の後ろを焼く日の光。汗が額に滲んでくる。白髪の少女は、ぶちり、と小さな音をさせて草を抜いた。
「そうなんですね。でも、それだけで陛下に睨まれてしまうなんて不運ですね」
「いやー、王様の立場上分からなくもないんですけどね。めっちゃ疑り深いですね」
「あの……それで理不尽さに嫌になったりはしないんですか? あなたは陛下のお傍によくついてるって話ですよね。それだと余計に大変そうですけど……」
心配そうな声音に、雫は肩を竦めて返す。
「理不尽は嫌ですけど、適度に息抜きもしてますから」
「息抜き……ですか」
「もっと言っちゃうと仕返しもしてますし。この庭も草むしり終わったら、耕して人参畑にでもしてやりますよ。まだまだいけます」
性格以外は弱点がないように見えるラルスだが、人参だけは子供のように毛嫌いしている。だからこそ雫も時々、人参を混入させたケーキを差し入れているのだ。それで充分意趣返しはしている、という雫に、少女は苦笑した。
「お優しいんですね。でも何かあったら、手をお貸しすることだってできますよ」
「いやいや。今も貸してもらってますし、十分です」
ラルスの気分で回ってきた仕事に、人を巻き込んでしまうこと自体抵抗があるのだ。即答で固辞する雫に、少女はくすりと笑った。
「陛下も、あなたのそんな我慢強いところをご存知だからこそ、大事な仕事をお任せになっているんでしょう。あの方は随分あなたに気をお許しになっているようですし」
「微塵も許してません。むしろいつも私を斬り捨てる機会を狙ってますからね、あの人は。ちゃんと真実を見てください」
事実でしかない訴えに、けれど少女は笑っているだけだ。
雫はふっと息を吐く。
それからしばらく二人は、草むしりに集中して作業を進めた。時折、女官の少女がぽつぽつ投げかけてくる質問に雫は一つ一つ答えていく。それは、雫自身のことやラルスに関すること、城での生活についてなど様々だ。取り留めもない質問に、彼女は時には本当のことを、時には答えを濁しながら、淡々と返していった。
そうしているうちに、草むしりはついに、精霊の広場を残すだけとなる。
すっかり山になった雑草の束を振り返り、雫は伸びをした。
「つ、疲れた……腰に来る」
「大丈夫ですか?」
女官の少女は、この二時間ほどで大分草むしりに慣れたようだ。次第によくなってきた手際で雑草の山を大きくしている。
雫は汗一つかいていない少女を見返し、微苦笑した。
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます。もうお昼になりますし、それまでに終わるよう頑張りますよ」
昼にはメアがお弁当を届けに来てくれることになっている。雫は時計を持ってきていないが、太陽の位置から察するに、今は昼をいくらか過ぎたくらいだろう。
立ち上がった彼女は、酷使されて強張った指や体をほぐした。それをしながら雫は、自然に広場から離れ、城の建物が見える方へと数歩移動する。
しゃがみこんだままの少女が振り返った。
「どうかしました?」
「いやあ、一応距離取ってから聞こうと思いまして」
「え?」
怪訝な表情で聞き返す少女の名を、雫はまだ聞いていない。聞かなかったのは、意味がないかもしれないと思ったからだ。どんな名前が返ってきても、塗り替えられる可能性がある。
だから雫は息を整えると、彼女に向き合った。
「的外れな指摘だったらすみません。でも……」
白い髪の少女の澄んだ目が、雫を捉える。
その眼差しを見つめて、雫は言った。
「――あなたは、女官じゃないですよね」
3
おかしいと思ったのは、最初からだ。
そもそもこの奥宮は、普通の人間の立ち入りが許されていない。そこにやって来た少女は、誰に手伝いを命じられたというのか。
「他人に迷惑をかけない仕事で、王様が私に手伝いを寄こしてくれるわけがないですし、そもそもこの城の女官さんたちって、なぜか私のこと『王様のお気に入り』って思ってるんですよ。でもあなたは、私が王様に睨まれてるって知っている――」
少女はまだ、しゃがみこんだ姿勢のままだ。
だが真っ直ぐに返ってくる視線は、臆するところのないもので、それが既に、答えの一つとなっていた。
雫は少女の白髪を指差す。
「あとその髪、そこまで長いと縛るだけじゃなくて、まとめて背につかない程度に上げるようにって服装規定があるんです。女官の人以外は、城に仕える人でも知らなかったりするみたいですけど……あなたも知らなかったみたいですね」
背に垂らされた白い髪を、少女は振り返る。
その仕草は何処となく余裕があるものだ。今のこの状況で、それだけの余裕を見せる相手に、雫は警戒を強めた。さりげなくいざという時の退路を確認する。
「……手伝いはありがたかったですけど、あなたはさっきから、王様や私について情報を集めようとしてますね。その為に女官の振りをしている……つまり、あなたの正体は、他国の密偵なんじゃないですか?」
密偵や暗殺者ならよくいると、レウティシアは言っていた。だからもし、女官の振りをするこの少女の正体がどちらかなら、暗殺者より密偵の方がいい。もし暗殺者だったなら、今この場で殺される可能性もあるのだ。
だが雫は死の危険を承知の上で、少女から視線を外さなかった。
「私を味方に引き入れるか、そうでなくても王様の情報を手に入れられればいいと思ったのかもしれませんが、生憎協力はできかねます。私が知っていることはほとんどありませんし……何より私、あの人とは、正々堂々勝負してますので」
ラルスのことは全く好きではないが、だからと言って謀略に与する気はない。自分は自分なりに彼と戦っている。それを自分の手で汚すつもりはないのだ。
雫は息を殺して相手の出方を窺う。逃げ出すなら今だろうか。そんなことを内心で迷っているうちに、少女はにっこりと笑った。
「豪胆な方ですね。今ここで疑惑を口にして私を相手にする方が、疑惑を飲みこんで後で王に処断されるよりもいいと判断したのですね」
「……そりゃまあ、ああいう人ですから」
「あとは、時間的にそろそろあなたの使い魔が来る頃だと計算しましたね。彼女の助けが入れば、死ぬまではいかないと思ったのでしょう。――ですがそれは少し、甘い見通しですね」
「……っ」
少女は目を細める。
薄青い瞳がその途端、うっすらと光を帯びて見えた。何が変わったというわけではない。ただ空気の変化に圧されて、雫は無意識のうちに後ずさりかける。
少女は空の太陽を仰いだ。
「もう昼は過ぎていると思ったのでしょう? なら、使い魔が現れないことをあなたはもっと怪しんで、用心するべきです」
「え……?」
「王のことも、後で咎められる隙を与えないようにというのは分かりますが、一人で暗殺者かもしれない相手と対峙しようとはあまりにも浅慮です。本当の暗殺者なら、あなたは逃げ出す間もなく殺されているでしょう。――次の機会には、その危機感の薄さを自覚して動くことをお勧めします」
少女は泥に汚れた手袋を外しながら、滔々と注意を述べていく。その内容はどう聞いても雫への説教と思しきものだ。
女官ではない。暗殺者でもないなら、突然現れたこの少女は一体何者なのか。
雫は正体の読めぬ相手を見つめる。
「あなたは……一体誰なんですか」
謎めいた少女への問い。
彼女はその質問に、すぐには答えなかった。
ただ一つに束ねてあった髪を解くと、円形の石板に上がる。
整然と並ぶ十一体の石像。そこに一か所だけある空白に、少女は立った。優美な仕草で膝を折って礼をする。
「広場の手入れをありがとうございます。わたくしの名はシルファ、ファルサスに伝わる十二の精霊の一人でございます。――どうぞ以後、お見知りおきを」
ふわりと微笑んだ少女は、次の瞬間、何の前触れもなく姿を消す。
まるで今まで一緒にいた時間が幻だったかのような唐突さに、残された雫は呆然と立ち尽くした。石板におかれた手袋を見つめる。
「……へ? 精霊? って、あれ、魔族?」
日中の野外作業で白昼夢でも見ていたのだろうか。頭を振る雫は、城の方から駆けてくるメアを見つけて飛び上がった。
「メア! よ、よかった……!」
「ご主人様! ご無事ですか!」
「本物? 本物のメアだよね?」
「なぜか結界が張られてて、入れなくて……」
汗びっしょりになっている少女は、相当心配してくれていたらしい。心配そうに自分を見上げてくる緑の目に、雫は先程まで一緒だった上位魔族の眼差しを思い出した。
――深々と、肺の中の空気を吐き出す。
「さすが魔法大国……底知れない……」
「ご主人様?」
「何でもないよ。……お昼食べよっか」
草むしりだけではない疲労感を噛みしめて、雫はメアと日陰に陣取る。
そうして昼食を取った後に雑草の山を始末して、雫は庭掃除の仕事を無事終えたのだった。
4
「小さい頃は、この像に登ってみたこともあったわ」
石像の一体、鳥の形をしているそれに手を置いて、レウティシアは笑う。
庭掃除を終えた翌日、雫はラルスに仕事の終了を報告しにいったのだ。その成果を王が検分すると言い出したのは予想の範囲内だが、レウティシアがついてきたのは、ラルスが何かやらかさないか心配だったからだろう。
精霊の像の一体に寄りかかっている男は、退屈そうに欠伸をしている。その姿を横目に見ながら、雫は気になっていたことを切り出した。
「あの、レウティシア様、つかぬことをお伺いするんですが……」
「何かしら? 言ってみて?」
「いえ、ただ精霊の人って、ここに石像がない場合は結構好きに動いてたりするんですか?」
あの日草むしりを手伝ってくれた少女の分は、相変わらず石像がないままだ。なら、今この時もどこかで人間のようにふるまっているのだろうか。
レウティシアは素朴な質問に、不思議そうな顔になる。
「石像はないけれど、私の使役下にあるから。基本的には命令しなければ出てこないままね。……急にどうして?」
「あ、ちょっと気になっただけです。どこか別のところにいるのかな、って」
「ああ、あなたは使い魔の子と大体一緒にいるものね。でも精霊は、あんまり人目に触れても皆を驚かせてしまうから。必要がなければ消えているままなの。――一応、私がファルサスにいない時に何かあったら、兄上の命令を聞くようにとは言ってあるけど」
「……王様の命令を」
雫はその言葉を反芻して、ラルスを振り返る。
石像に寄りかかったままの王は、彼女の視線に気づくと、にやりと笑った。悪戯心と悪意を含んだその笑顔は、彼が精霊に今回の命を下したと隠しもしないものだ。おそらく、手伝いをする振りをして雫の化けの皮を剥いで来いとでも言ったのだろう。全てを理解した彼女は、口元を引きつらせる。
「なるほど……私の反応を見て試してたんですね……?」
「雫? どうかしたの?」
「いえいえ。王様は本当いい性格してるなって思っただけです……」
「何の話だ? 心当たりがないな」
「いい性格すぎて、本当にここを人参畑にしようかと思い始めました」
「その時はきっちり投獄してやるから安心しろ」
「何の罪なんですか、それ」
「人参栽培罪だ。今決めた」
ラルスは小さく舌を出す。その態度に雫は顔を顰めたが、すぐににっこりと笑顔になった。怪訝そうな王妹を見上げる。
「そう言えばレウティシア様、お菓子の作り方をお教えするって約束してましたよね。早速お教えしますよ。材料は人参です」
「そ、そう……ありがとう」
「投獄するぞ、人参娘」
「王様に食べさせるなんてまだ言ってないですから。越権行為やめてください」
「あの、雫、よかったら他のでも……」
「人参ケーキもあります。色が鮮やかですごくお勧めです」
「よし、分かった。いい度胸だ、人参娘。お前の挑戦を受けてやる」
三百年も前から伝わる精霊たちの広場で、雫と王は大人げなく睨みあう。
その頭上に広がる空は、精霊の瞳と同じ青で――何事もなく澄みきっていた。
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