21 たまにはカレーが食べたい
※ すみれパートの三人称回です
☆ ☆ ☆
二郎が海を越えた先で相変わらずラーメンのことばかりを考えながら、さらに別の島へ渡るか渡らないか、という日々を送っている、ちょうどそのころ。
「そう言えば佐野ってメイラード反応のこと、知ってるのかな」
若きラーメン女王、青葉すみれは港町に小さな露店を構え、鉄鍋の中で鶏のミンチ肉と少量の蜂蜜を炒め合わせていた。
肉と蜂蜜を合わせて炒めるなど、われわれにとってはなじみの薄い調理技術である。
しかし、日本国内のように安易に醤油を入手できないこの世界で、すみれはすみれなりに考えた結果としてこのような手段を試してみることにした。
肉と言うのは、言わずと知れたタンパク質を豊富に含んだ食材である。
それに対し蜂蜜は単糖類と言って、われわれが使う白糖(ショ糖)とは化学構造の違う糖類だ。
タンパク質と単糖類を加熱しながら混ぜ合わせるといったいどうなるか。
「うーん、いい感じに色が出てきた」
すみれの手で調理された肉と蜂蜜が、まるで醤油のように焦げ茶色に変わっていった。
もちろんこれは焦げているわけではない。
また、砂糖を加熱したときに変色が起こるカラメル反応(プリンにかけるカラメルが焦げ茶色をしている原理)でもない。
単糖類とタンパク質がある種の条件で混ざり合うことにより、もともとの色とは全く違う、まさに醤油のような深い焦げ茶色に変わる。
これをメイラード反応と言うのだ。
そして、の発色反応こそが大豆のタンパク質と麹の糖分によって醤油が焦げ茶色になる原理でもある。
醤油は長い熟成期間を経て糖とタンパクが反応し、メイラード反応が起こる。
それをすみれは今、鉄鍋の中で加熱することで短時間で再現したのだ。
この反応が起こることで、色だけではなく香りの変質や防腐性の向上ももたらす。
「ん、いい匂い!」
肉が焼ける香ばしさの中に、アーモンドや花にも似たかすかな芳香をすみれは感じ取った。
さらにすみれはこの鉄鍋の中に、二郎がかつて作ったような魚醤と水を混ぜる。
混ぜ合わせた液体は見事な焦げ茶色で、まさに醤油と見まごうほどであった。
固形物を布でこし取り、液体のみを抽出する。
塩分の辛さ、魚醤の発酵臭を含んだ深い香気、糖と反応したタンパク質による旨味成分。
そしてメイラード反応による深い茶褐色と芳香。
理屈の上では、全く醤油と同じ液体がそこに出来上がった。
ぺろり、と一口なめてすみれが味見をする。
「んー、やっぱりアルコールの香りがないと、醤油って感じがしないかな。美味しいことは美味しいけど……」
本来の大豆醤油はアルコール発酵を経て作られるので、魚醤の乳酸菌発酵とメイラード反応による香気変化のみでは、すみれの考える醤油には程遠いものだった。
「佐野のやつ、醤油がないと死ぬとか言ってたし、こういうので代用できれば手に入れるのが簡単になるとは思うんだけど……」
つい先日、醤油を失うか失わないかの瀬戸際で二郎が文字通り死ぬ寸前だったことを、すみれはもちろん知らない。
☆ ☆ ☆
試行錯誤して促成醤油(仮)の調整を続けているすみれの前に、一人の客が現れた。
「もう一人の異界からのお客が、こんな若いお嬢さんとは。娘から手紙が届いたので様子を見に来たが、もう立派に自分で店を持とうとしている。このたくましさは娘にも見習ってほしいところですな」
長身痩躯のエルフ、外見で年齢はわからないが、鷹揚な物腰の男だった。
「いらっしゃいませ! あれ、ひょっとして、あのコのお父さん?」
すみれはそのエルフの顔立ちが、自分の知っているエルフ娘に似通っていると思い、そのことを告げた。
「その通り。一目見て私どもの容姿の特徴を判別する異界の方ははじめてですよ」
「そうですか? 全体的に面影があるし、耳の先端とか、髪色の濃さとかそっくりですよ。お父さんも素敵ですね~」
すみれの憶測通り、二郎と行動を共にしている鎧エルフ娘の父親であった。
「その鋭敏な観察眼には恐れ入る。いや、娘の手紙ではジロー氏以上の料理の達人と書かれてあったので、それならば食べてみなければいかんと思って伺ったのですよ。しかし……ジロー氏と同じく、ラーメンの作り手のようですね」
勝負に勝ったのは二郎だが、エルフ娘の中ではあくまでもすみれの方が上のようであった。
「ラーメン、お嫌いでした?」
「いやいや、決して嫌いと言うわけではないが、さすがにラーメンの専門家ばかり立て続けにこちらの世界に飛ばされて来ないだろう、と思い込んでおりましてな。ラーメン以外の料理を勝手に期待してしまった。申し訳ない」
苦笑いして謝罪するエルフ親父を見て、すみれは思い立った。
「じゃあ、カレー作りましょうか。お時間頂くんで、明日のお昼ごろにまた来ていただけます?」
丸一日の待ちぼうけを言い渡されたエルフ親父は、露骨に口を開けて呆然とした。
「ま、まあ事前に連絡をせずいきなり押しかけたわけですからな。明日まで楽しみに待ちましょう。は、は、は」
あくまでも寛大な態度を崩さずに、エルフ親父が力なく笑った。
ここが、すみれと二郎の違いであろう。
二郎ならば限定された条件の枠内、この場合で言えば目の前に食いに来た客がいるから待たせたくはない、と言う時間制限の範囲で最高の結果を出すことを考える。
しかしすみれは自分の基準で納得できる仕事ができない限り、それを客に出すことができない。
即席でラーメン以外の自信のある料理を、ろくな準備もなく用意する見通しが立たなかった、ということもある。
料理人としての経験と応用力が二郎よりすみれは浅く未熟だということ、加えて性格の違いによるものか。
自分が納得していないものを客に出したら失礼だ、と言う心中の線引きが明確にあるのだろう。
事実、すみれの師匠である父親も、今日のスープはこれだけしか品質を保てない、と分かった時点で閉店時間を早めて客に入店制限をかけていた。
それでも彼女の実家は都内有数の人気店だった。
そんな環境ですみれは育ってしまったのである。
☆ ☆ ☆
「たまねぎー♪ にんじんー♪ おいもーっ♪」
すみれはカレーを仕込むため、市場に出て材料を物色している。
彼女の店はまだ準備段階であり、本格的な開店営業はしていない。
そのため、今回のような突発的な客やリクエストがあっても、それに応じて準備をやり直せる。
もちろん待たされる羽目になったエルフ親父としては想定の範囲外だろう。
すみれの側では「ちゃんと美味しいものを食べてもらうことが一番大事」という一方的な大義があるので、両者の認識のズレは埋まらない。
「クミンー♪ ウコンー♪ パプリカあるかなー♪」
歌いながら上機嫌で材料、調味料を探し求めているすみれ。
絶望的に音痴なので、周りの客がとても不安な顔つきになっている。
「もし、失礼だが貴女は異界からの来訪者であるか」
買い物を続けているすみれに、一人のドワーフが話しかけてきた。
港町と言うこともあり、移動に物流にとさまざまな種族が行き来している。
ドワーフがいることも珍しいことではないが、すみれにとっては見覚えのない顔だった。
「そうですけど、なにか?」
「貴女と同じく異界から来たジローと言う男が、この港から海を渡ったはずなのである。奴からの手紙には、この町にもう一人、異界から来た女性がいるのでその者にもショウユを分けてやって欲しいとの依頼があったのだ」
ドワーフは、二郎の出発した村の工房で働いている、通称「親方」であった。
「あ、佐野から聞いてます! 醤油、佐野から分けてもらったのも残り少ないし、欲しかったんですよ。助かったー!」
「それが言いにくいことなのであるが、運悪く工房が良くない菌に侵されてしまったようで、ショウユの製造が止まってしまったのである。他の者が全力で復旧に取り掛かっているが、ひとまず無事なショウユだけを持参して急いで届けようと思い、われが早馬に乗ってここまで来た次第である」
酒も醤油も特定の菌の力を借りて発酵を進める食材である。
工房が食品発酵以外の雑菌に汚染されると、その品質にも狂いが生じ、最悪の場合は仕込んでいた食材が駄目になってしまうのだ。
親方が、すみれに失敗した大豆を見せた。
「明らかにおかしな悪臭を放ち、糸まで引いてしまったのである」
納豆菌の力で発酵し、糸を引いた蒸し大豆。
いわゆる納豆がそこにあった。
実はこの世界にもともと納豆菌は存在しなかった。
二郎が外から来たことで、二郎の体表面に残留していた納豆菌がドワーフの村周辺で、少しずつ繁殖したのだ。
もちろん親方もすみれも、そんなことは知らない。
「ま、まあ今ある分の醤油は、佐野にまわしてあげてください。あいつ、醤油がないと頭がおかしくなって死ぬみたいなんで」
「貴女は平気なのであるか。ジローの話では、ニホンジンはショウユがないと力が出ないと」
「それはあいつだけ……でもないけど、アタシは大丈夫ですから、ハハハ」
すみれは独自の促成醤油を模索していたこと、及び二郎ほど醤油ジャンキーではないので危機的状況にあるわけではない。
しかし醤油の仕込みが復活すれば、親方はすみれにとっても協力を仰ぐことになる相手である。
彼の勤める工房は良質の酒類も製造しているので、店を開くすみれにとっては縁をつないでおきたい存在だ。
すみれは出会った記念と今後の話も含め、翌日のカレー食事会に親方を誘った。
「承知した。辛い料理は大好物であるゆえ、楽しみである」
「ぜひぜひ。あと、その大豆、もらっていいですか?」
「こんな腐った豆をどうするのであるか」
この世界に納豆を根付かせるのは大変そうだ、とすみれは思った。
☆ ☆ ☆
すみれが港を観察し、情報を集めていて知ったことがある。
それは、米が流通していること、しかしきわめて高価であることだ。
価格はともかく、予約や事前の交渉なしでまとまった分量の米を入手するのがほぼ不可能であるらしい。
そのことを知り、すみれはカレー食事会で無発酵のパン、要するにナンのようなものを付け合せることにした。
「カレーと、ナンと、チキンと、サラダと、生姜スープ。こんなとこかな。果物いっぱあるしジュースもいいか。紅茶があればチャイも作れるけど、この世界にあるかな……」
すみれはラーメン作りに非凡な才能を持っているが、その優れた味覚や嗅覚はじっくり時間をかけて味を調整する煮込み料理全般に向いている。
その反面、体力と手際の良さでは二郎を含めたベテラン飲食従事者にかなわないことを自覚している。
特に炒め物などに要求される、大きな鍋をガンガンと片手で振りながらお玉も同時進行に使う、豪快な手さばきが苦手であった。
「アタシが作るラーメンは絶対間違ってない自信はある。でもいろんな経験を積んで技術も磨かないとね……」
二郎との勝負に負けたことで、すみれなりに思うところがあったのだろう。
本業から外れたカレー作りとは言え、決して手を抜くつもりはなかった。
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