17 飛び込め! ジローさん!

 なんてこった! トカゲ船長の横暴によって、貴重な醤油が海の藻屑と消えてしまうではないか!

「俺が合図をしたら引き上げてくれ、頼むぞ!!」 

 俺は救命用と思われる、長いロープが付随した木材を海の上、醤油が入っている竹筒の傍に投げ入れる。

 ロープは船体にしっかり結わえつけているようだし、猫舌くんに見ておいてもらえば間違いもあるまい。

「アイキャンフラーーーーーイ!!」

 俺は、飛んだ。

 もし自分が鳥だったら、などと言う気弱で夢見がちな仮定文法に頼ることなく、文字通り海面へ飛んだ。

「いや、ちょ、待っ」

 猫舌くんがなにか言っていたようだが気にしない。


 こちとら、やっと削り節の作成に取り掛かったんだ!

 ここで醤油がないなんて許されざることだ!

 異世界に来てから、なんども夢に見てうなされた。

 狂おしいほど愛しい魚介豚骨醤油スープの完成を遠ざけてたまるか!!


 着水と同時にまず竹筒をしっかりつかまえる。これが一番大事だ。

 そして浮きの命綱を……遠いな! 

 飛んだり泳いだりと忙しいわけだが、醤油には代えられない。

 村に連絡すれば補充を送ってくれるとしても、俺の旅路はずいぶんと村から離れてしまった。連絡にも搬送にも大いに時間がかかるだろう。

 手元の醤油備蓄がないまま、旨そうな海の幸を目の前に醤油が届くまでの長い時間を過ごせだなんて、生き地獄にもほどがある。 

「うおおおおおっ! 死んでもお前を手放さないぞ!!」

 波に翻弄され、冗談抜きで死にそうである。

 しかしなんとか俺は救命用の浮きにしがみつき、猫舌くんや他の船員が俺の引き上げに尽力してくれた。

「死ぬ気か!」

 みんなに怒られた。

「サメもこんなやつを食って腹を壊したくはないのだろう。命拾いしたな」

 エルフ娘だけは怒っていなかったが、怒られたほうがマシに聞こえる言い草だった。

「ついカッとなって飛び込んだ。反省はしている。正直スマンカッタ」

 みんなに世話と心配をかけたのは素直に謝罪したい所存。

 醤油を失うことを防げたのだから、特に後悔はしていないが。

 その上、海に落ちたついでに昆布を引き抜いておいた。

 品質的に使い物になるかどうかは全くの未知数だが、これからの作業のために昆布の乾燥や出汁をとるテストも一通り試してみたいからな。

 鰹節(カツオと限ったわけではないが)、昆布、そして醤油。

 大事なものが手元にちゃんと確保できてよかった。

「なんだこれは。腐った木か?」

 エルフ娘が製造途中の鰹節を海に捨てようとしたので、全力で制止した。


 ☆


「帰りの航路は俺の船に乗らないでくれよ。あんたみたいな客は一度で十分だ」

 ひどいことをトカゲ船長に言われながら、俺は船を降りた。

 そこは地龍島という、トカゲ男たちの本拠地であり、猫舌くんたちドワーフが出稼ぎのために訪れた土地である。

 俺はひとまずドワーフの一団と別れ、港近くで魚を乾燥させたり昆布を乾燥させたりする作業場所を確保した。

 と言っても無断で道具や材料を広げているだけだが、もちろんそんなことをしていたので文句を言ってくる奴がいた。

「お兄さん、見ない顔ですけどどちらの人? 港湾協力組合の証書持ってる?」

 ウサギ人間のようだ。小さなメガネをかけて、襟にはスカーフなど巻いている。

「組合の証書とか必要なんかい。別にここで商売をしているってわけじゃあねえんだが。ちょっと場所を使わせてくれるだけでいいんだがなあ」

 そう言えば俺は身分証明になるアイテムを持っていた。いつだか、ドワーフの村で酔っぱらいにもらったゲロ石だ。

 俺がそれを見せるとウサギは眼鏡越しにじっくりと石を鑑定する。

「地霊さまの輝石ですかあ。濁ってはいませんがやや小さいですね。これを授かったのは半精霊からですか?」

 石を見ただけでいろいろわかるものなんだな。この世界の常識なのか、このウサギが優秀だからなのかは、俺にはわからない。

「ああ、なんだか半分だけとか言ってた。半分だと何か問題があるのか」

「問題と言うほどではありませんけどね。長くこの島に滞在するならこの島ゆかりの精霊さまに加護を受け直してもらわないといけません。それができないなら短期滞在ということになります。長くて十日と言うところですね」

「十日か。ひとまずそれでいいわ。また別の島にも行くと思うし」

「そうですか。あとは、港湾でなにか商売をするつもりがおありでしたら、組合本部に行って許可証を発行していただく必要があります。島の港湾以外でなにかお仕事をお探しなら、役場に行って労務許可証の手続きをしていただきます。島外の方が許可なく商売をしたり漁をすると罰せられるのでお気を付けください」

 なんだこの島は。日本か。いちいち七面倒臭いったらありゃしねえ。

「なにかしたいなら所定の場所で許可を取れってことだな。だいたいはわかったよ。ところでここはトカゲ連中の島って聞いてたんだが、あんたみたいな他の種族も多いんだな」

 エルフの町でも同じことだったが、いろいろな種族が往来している港のようだ。

 ただし、この島でのウサギ人間たちは末端作業者と言うより、管理者のポジションにいるように見える。

「私たちは岳兎(ガクト)の島からこちらに事務作業や会計作業のために派遣されて働いている者です。島と島とでお互いの種族が得意な仕事を分担したり分け合ったりしているのですよ。この島の港湾組合の副長もわれわれと同じ、岳兎の民ですよ」

 獣人と言う連中は彼らなりに合理的な社会システムを作り上げて暮らしているようだ。ドワーフとエルフもこれくらい仲良くすればいいと思う。

 ちなみにエルフ娘は、父親の名を告げたら愛想よく応対されてウサギ人間から余計な詮索をされずに放免された。

 いろいろと差別を感じる。


 ☆


 俺は受けた説明に従って、ひとまず港湾組合で素潜り漁と竿による釣り漁と食品加工と飲食業の短期営業許可を取得しなければならなかった。

 漁の形態によって手続きやら手数料がものすごく細かく分かれていたことに若干引いたが、まともに考えれば普通のことだよな。

 手続きが煩雑なことと、俺がまだこの世界の文字を読み書きすることに慣れていないせいで丸一日が潰れてしまった。


 気を取り直してもろもろの作業を進め、この港で過ごすこと五日。

 エルフ娘は観光をしたり買い物をしたり、トカゲ人間の町で開かれている武術道場を覗きに行ったりとフリーダムにしているので、特にこっちから構ってはいない。

「ようジロー、調子はどうだい」

 そんな日々のさなか、島内の別の場所で金属鋳造の助手をしていた猫舌くんが、俺の様子を見るために港に遊びに来た。

「まあ、ぼちぼちだな。試作したラーメンを露店広げて売ってみたいから、客引きとかサクラをやってくれるとありがたい。もちろんその前に試食してほしいが」

 燻製、乾燥させた魚介類は、本枯れとまではもちろんいかないまでも、調理に使う荒節としてなんとか使えそうなところまで持って行った。

 本枯れと言うのは本格的な鰹節などに施されてる加工で、乾燥熟成期間を長くして鰹節の表面にカビをわざとつけて乾かす。その工程を繰り返してできた鰹節のことだ。

 カビ、要するに細菌の力により魚肉の中のタンパク質が分解され、また水分も徹底的に除去されてかなりの長期保存が可能になる。

 俺たちがよく知る「人を殴ったら武器になるほど硬い鰹節」は基本的に枯れ節、本枯れ節とか呼ばれるものだ。

 並行して海の小魚を何種類か煮干しにした。

 また昆布も少量ずつだが採取して乾燥させて、を繰り返した。

 

 港の市場で鳥ガラや豚骨を安く分けてもらい、少し値は張ったが乾燥キノコをいくつか買ってある。

 鰹節、もしくは煮干し。

 昆布。

 鶏ガラや豚骨。

 キノコ。

 日本人が研鑽してきた「旨味」という料理の奥義。

 それを構成するのが昆布のグルタミン酸、鰹節や獣の肉に由来するイノシン酸、キノコなどの旨味成分とされるグアニル酸というアミノ酸たちだ。

 厳密には○○酸ナトリウム、と言うのが旨味の元である。

 ちなみに醤油や味噌の原料となる大豆にも豊富なグルタミン酸が含まれている。

 ひとまず、自分にとっての味の基本、旨いと人が思うことの基本になんとか立ち返ることができる材料がそろった。

 その基本に立ったうえで、俺は自分にとっての異世界ラーメンを探していきたい。

 異世界を回っていろいろな味や食材を知ったとしても、自分がスタートするところ、原初の立脚点は強く再確認しておきたい。

 そのためにわざわざ海に来た、海を渡ったと言っても過言ではないほどだ。


「ん。む。んー」

 上記の材料、それと少量の野菜でスープを取った醤油ラーメンを、熟成が進んだメンマも添えて猫舌くんに提供する。

 なにか考えているような難しい顔をしながら、猫舌くんは食べている。

「あんまり舌に合わねえか」

 まだまだ完成には程遠いので、いきなり高評価がもらえるということはないだろう。

 抽出した旨味成分のバランスを調整する作業に関しては、おそらく俺よりもすみれのほうが一段も二段も上だろうしな。

「いや、そうじゃなくて。辛くて旨いとか、しょっぱくて旨いとか、甘くて旨いとか、脂っ気があって旨いとか、そういうのがわかんないんだけど、なんか旨い。こんなのは今までで初めてだ。なにが旨いのかわかんないんだけど、旨い」

 猫舌くん、それが旨味ってやつなんだ。

 俺たちのいた世界でも食材の旨味を味の主体に位置づけする食文化と言うのは珍しかった。大きな国、文化圏では日本以外に俺は同じことをやっている国を知らない。

 昆布で出汁をとる国がそもそも日本くらいのものだからな。

 元の世界でも珍しいことなんだから、異世界に渡って来てもそれは珍しいことだろう。


「なあ、ドワーフにとって物心ついたときから食べ慣れてて、それがなきゃどうしても元気が出ない食べ物ってのはなんだ?」

 露店の準備に付き合ってもらいながら、俺は猫舌くんに質問した。

「そうだなあ、鶏肉と豚肉を焼いたり煮たり揚げたり。あと芋と豆だな。芋は茹でても揚げても食うし、豆は煮たり豆乳にしたり。肉の間にいろんな豆を詰めて焼いたりもするよ。俺の好物なんだ」

 それがドワーフのソウルフードか。

 エルフの場合は果物や色の良い野菜、そしてお菓子がないと頭がおかしくなって死ぬらしい。

 この世界に住む様々な種族の魂に訴えつつ、俺自身の魂をぶつけられるような、そんなラーメンを作りたい。


 そんな決意のもとに魚介豚骨醤油ラーメンの下ごしらえをしていたとき、肌が浅黒いエルフの女が俺の前に現れた。

「……ッ!!」

 そして、自由に観光して回ってたエルフ娘と、タイミングがいいのか悪いのか、ばっちり鉢合せをした。

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