第18話

 改めてエレベーターの外の造りを見て、俺はあまりの豪華さに驚いた。

 床にはくすんだ赤色の絨毯が敷かれ、壁には燭台を模した照明が煌々と灯っている。冷房は相変わらず効きすぎるほどに稼働していて、窓からは眼下の石畳の道路がよく見えた。


 まさか外壁が防弾仕様になっていない、なんてことはないだろう。それでも、余分なところに金を掛け過ぎている、という感覚は否めない。正直、こんな豪奢な建物に踏み入るのは、俺には初めての体験だった。


 そんな俺の胸中に、一つの不安が去来した。

 首都に住む人々は、今が戦時下であるということを忘れがちなのではないか、という懸念だ。スランバーグ将軍の受け売りである。


 民間人ならまだしも、軍の高官がこの事態を軽視していたとしたら。

 この街で、何かとんでもないことが起こるのではないか、という一種の恐怖感さえ湧いてくる。

 民間人は、戦い方というものを知らない。銃声が鳴り響いても、慌てて伏せることすらできないのではないか。

 俺は、正装した服の上から左腰に吊ったホルスターに手を遣りそうになった。いつどこから敵が出てくるか、分かったものではないと思ったのだ。が、何とか堪えた。

 今はせめて、この建物の壁のみならず、窓ガラスもまた防弾であることを祈るしかない。


         ※


 数回の曲がり角を経て、引率の兵士が立ち止まった。


「こちらが首都防衛部隊司令、グレンド・アールゼン大佐の居室になります」


 そう言って引率係は振り返り、数回ドアをノックした。


「アールゼン大佐、前線基地からルイス伍長他三名、お連れいたしました」

「了解だ。入ってくれい」

「はッ、失礼致します」


 随分と気楽そうな声が返ってくる。すると、引率係はギシッ、と音を立てて、重厚な木の扉を押し開いた。

 続くルイスが一礼するのを見て、俺も無言で一礼しながら司令室に足を踏み入れた。


 顔を上げ、きびきびと入室すると、そこには窓を背後にデスクが置かれ、さらにその上に紙の束が天に昇るかのように積み重なっていた。


「ああ、楽にしてくれ、諸君」


 すると、愛想のいい丸顔が、ひょっこりと紙の隙間から覗いた。

 歳は恐らく四十代半ば。栄養状態は極めてよいものと考えられる。脂ぎった汗を振り払うように、アールゼン大佐はかぶりを振った。


 引率係が廊下に出て、扉を閉めると同時に、大佐は立ち上がった。随分と背が低いのが印象的だ。


「疲れただろう? さあ、掛けてくれ」


 そう言って、司令室中央の来客用デスクと、その前後に置かれた横長のソファに手を差し伸べる大佐。


「誰か酒は?」

「いえ、わたくし共は結構です」


 リアン中尉がやんわりとお断りする。


「そうか! では私だけかな、飲むのは」


 そう言って、俺たち同様にソファに腰かける大佐。『手酌になってしまってすまないね』と言いながら、グラスを片手に取って並々と琥珀色の液体を注ぐ。


「私はどうも、酒が入らないと心がささくれてしまってね、話にならんと部下から口を酸っぱくして言われとるんだ。失敬」


 そう言って、小さなグラスを一気に呷る大佐。俺はその様子を、驚異の念を抱いて見つめていた。

 話をするために酒が必要だ、と? ピシリ、と頭のどこかで何かが千切れる音がした。

 酒は、あの牛肉の缶詰を比較しても、遥かに高級な飲食料だ。それがなくては話せない? だとしたら、あの基地にいては一言を発することができなくなってしまうだろう。


 グラスを置いた時には、既に大佐の顔は真っ赤になっていた。


「で、何の話だったかね? ああ、そうそう! 諸君らの歓迎会だ! よくぞ来てくれた、前線から遥々と!」

「何ですって?」


 俺は思わず、声を上げていた。隣に座っていたリアン中尉が、さっと俺の手に自分の手を載せる。堪えろ、ということだろう。

 だが、それどころではなかった。俺の頭の中は、怒りと言う名の業火に見舞われていたのだ。

 その火中にあったのは、スランバーグ将軍の最期と、あの朝顔の無惨な散り様。


「歓迎? そんなものいらない!」


 俺はガタン、と勢いよく立ち上がった。


「お、おいデルタ!」


 ロンファが俺を諫めようと声を絞り出すが、無視。


「大佐、あんたは知ってるのか? 本当の最前線がどんなものか!」


 具体的な文言は、あっという間に俺の頭の中を流れていってしまった。それでも、確かに言ったことはある。


 蛇や蛙を食べながら戦うひもじさが分かるのか。

 仲間が倒れていくのに、埋葬すらしてやれない無念さは伝わっているのか。

 スランバーグ将軍がどんな思いでこの街を守ろうとしていたのか、理解しているのか。


 と、いったことだったと思う。


 俺は大佐が、怒りに任せて喚き散らすかと思っていた。しかし、それには及ばない。

 まるで異国の言語を聞いているかのように、大佐はぽかんとしていたのだ。


 俺の理性を司る最後の弁が外れた。


「この野郎!」


 俺はテーブルを蹴倒し、大佐に飛びかかった。室内に控えていた衛兵が、後ろから腕を伸ばしてくる。しかし俺は、がむしゃらに肩から先を回転させてこれを振り払い、大佐の顔面に飛び蹴りを見舞った。


「ぶふっ!」


 丸々と肥え太った大佐は、それこそ豚のようだった。


「デルタ、もう止めなよ! 軍法会議にかけられる!」

「止めるなルイス! この野郎、ぶち殺してやる!」

「き、貴様、伍長の分際で私に歯向かうなど――」


 などなど、騒ぎが拡大する最中のことだった。

 パン、と一発の銃声が轟いた。皆が、動きを停止する。

 リアン中尉が自ら拳銃を抜き、天井に向けて発砲していた。チリン、と音を立てて薬莢が舞い落ちる。


「デルタ伍長。次はあなたの眉間を撃つわ」


 その凛とした声音に、俺の脳内火災は一気に鎮火した。


「アールゼン大佐、申し訳ありません。彼は――デルタ伍長は、戦闘の後遺症で感情を抑えることが困難でして。しかし、ルイス伍長に同伴を求められた相手でもあります。どうか軍法会議は、避けていただけないでしょうか」


 そう言って、リアン中尉はその場にひざまずいた。

 すると、未だに呆然としていた大佐の口から息が漏れた。

 俺も落ち着きを取り戻し、衛兵にされるがまま取り押さえられている。


 沈黙が舞い下りた。しかし、先ほどのヘリのキャビンに張り詰めていたそれとは違う。皆が自分の感覚を、現実に起こっている事象に合わせていくのに苦労してるようだ。

 それほど俺が、大暴れをしたということか。あるいは、それを抑えるために中尉が発砲したことに、皆がショックを受けているのか。


 沈黙を破ったのは、二人の衛兵のうち年嵩の方だった。


「ど、どうなさいますか、大佐?」

「……」

「大佐、お気を確かに!」

「あ、ああ……、そ、そうだ、貴様!」


 大佐は肘掛ソファの上でずり落ちそうになりながら、ぶんぶん腕を振り回した。その指先は、ひどくブレながらも俺を指している。今度こそ、大佐は口角泡を飛ばしながら喚き出した。


「デ、デルタとか言ったな! 貴様、禁固刑にしてやる! 二度と牢から出られないようにしてやるぞ!」

「お願いします! どうか穏便に!」


 呆けてしまった俺に代わって声を張り上げたのは、やはりリアン中尉だった。完全に土下座している。


「今回の人選には、自分も大きく関わりました! 彼を罰するならば、私にも同じ処罰を!」


 俺ははっとして顔を上げた。

 駄目だ。それは駄目だ。俺は叫び出しそうになった。

 せっかく首都の防衛にあたるというのに、中尉が外れたら統率者がいなくなる。

 いや、それ以上に、俺が暴走したせいで中尉が罰せられるのは耐えられない。


 すると、それを見ていた大佐は、顎を手で擦りながらこう言った。


「諸君らの処遇は追って連絡する。顔を上げたまえ、中尉。取り敢えず、今日のところは解散だ。これ以上酒を不味くされても困るのでな」


 嫌味のつもりで言ったのだろうが、大佐の顔には余裕など浮かんではいなかった。

 その後、俺たちは引率の兵士に出迎えられ、要人輸送用の護送車の下へと連れていかれた。俺は特別待遇で、両脇を衛兵に押さえられている。有難くもない。


 首都の護送車は、あたかも大型高級車両といった風情だった。ボンネットも窓も天井も、威圧的に角ばっている。


「さあ、皆さんこちらへ。既に護送用のSPが車内に待機しております」


 車内は三列シートで、運転手と助手席には黒いスーツの男が乗り込んでいた。二列目にはリアン中尉とルイス、三列目には俺とロンファ。それぞれ、窓際はSPが座っている。


 そこで、俺は一つ違和感を覚えた。

 あの大佐の態度からして、首都が急襲される可能性を完全に排しているように感じられる。だったら、どうしてこんな厳重な警備がされているのだろう?


 俺の疑問に構うことなく、護送車は発進した。

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