第11話
痩せ細った男が、上半身裸で手首を拘束され、そこから天井に吊るされている。
胸から腹部にかけては、みみず腫れと血の滲んだ筋に覆われている。出血はそれに止まらず、彼の足先から赤い液体が錆びた床面に滴っていた。
「何だよ、デルタ」
振り返ったロンファの顔には、しかし嗜虐的な表情は浮かんでいなかった。そこにあるのは、純粋な怒りだ。
俺は思わず、胸を打たれるような感覚に囚われた。
「ロンファ、こいつは捕虜だ。情報源になるし、人質としても使える。何より殺しちまったら、お前が代わりにこの牢屋に閉じ込められるぞ」
「お前、頭おかしいんじゃねえのか、デルタ?」
ロンファは強烈な一撃を捕虜に加えてから、部屋の隅に鞭を投げ捨てた。
「俺は、親父とお袋の無念を晴らしたいだけだ。誰にも口出しはさせねえ」
「落ち着け、ロンファ。お前がいくら捕虜をいたぶったところで、死人は帰ってこないぞ」
すると、鉄格子の向こう側からぐいっと腕が伸びてきた。襟首を掴まれた俺は、一気に鉄格子に叩きつけられる。その直前に、俺は両手を突っ張った。さもなければ、鼻先を鉄の仕切りにぶつけていただろう。
ギリギリと音を立てながら、ロンファは俺に顔を近づけた。その目は血走り、鼻息は荒く、首には青筋が浮き出ていた。
「デルタ、てめえの言う通りだ。死人は帰って来やしねえ。けどな、俺にはその死人を弔ってやる必要がある。それが今、生きてる人間の義務ってもんじゃねえのか?」
『少年兵だったお前なら分かるだろ?』――その言葉に、俺は思わず息を飲んだ。確かに、似たような感情を覚えた記憶はある。だが。
「だが、それでまた別な人間を殺していいってことにはならないだろう? 俺たちが相手をするのは、俺たちを殺そうとしていて、かつその手段を持っている連中だけだ」
「甘ったるいこと抜かすんじゃねえ。言ったろ? 『少年兵だったなら分かるだろ』って。食い物目当てで、野営中の敵小隊を皆殺しにしたのも一度や二度じゃねえはずだぜ」
「ぐっ!」
俺は思わず、自分の左胸に手を遣った。そして、ロンファの言わんとする経験の記憶に呑み込まれた。
※
あれは、雨がぱらつく肌寒い夜のことだった。
深夜である。ここは密林だが、周囲の野生動物たちは警戒心が強い。既に俺たちには捕捉できないところで、眠りについている。
俺はリュックサックの底を繰り返し漁っていた。しかし、栄養源となるパックゼリーはとっくになくなっている。
「どうだ、アルファ?」
「そうだな」
状況を問うてきたブラボーに、赤外線ゴーグルを装備したアルファが応じる。
「俺とチャーリーが前方から突っ込む。デルタはエコーを連れて、裏側から回れ。挟み撃ちだ。ブラボー、これを」
「おう」
アルファがブラボーに放ったのは、焼夷手榴弾だった。
「奴らが野営に使ってるテントは、耐火性のない旧式のモデルだ。付近には装甲車もステッパーもいない。狙うなら奴らを。今のうちだな」
「つまり、コイツでテントを燃やしてやって、出てきた敵をお前らがぶっ殺すんだな?」
「ああ。ブラボーには、この窪地から援護射撃を頼む」
「了解だ」
残る俺たちは無言で頷き、自動小銃に初弾を装填した。
「突入のタイミングは臨機応変に。敵に同情なんかするんじゃないぞ。分かってるな?」
偶然だろうか、アルファはちょうど俺の目を覗き込んでいた。
「では、作戦開始」
俺はエコーと共に、アルファたちから見て反対側に回った。雨のお陰で、多少の足音は相殺される。
「うわっ!」
「おっと! 気をつけろよ、エコー」
「ああ、ごめん、デルタ」
足を滑らせたエコーの上半身を抱えてやりながら、俺はすぐにテントへ振り返った。ブラボーの待機している位置から焼夷弾が投げ込まれたのは、まさにその時だった。
テントの横合いから勢いよく投げ込まれた焼夷弾が、一瞬でテントの半分を炎で包み込んだ。ばあっと広がった光に、あたりが昼間のように明るくなる。
数秒経って、敵兵士たちが喚きながら飛び出してきた。
「敵襲! 敵襲だ!」
「ぎゃあああ! 水! 水を持ってきてくれ!」
「皆、外に出ろ! 敵を迎撃して――」
と、隊長と思しき兵士が口にした瞬間、ぱっと血飛沫が舞った。ブラボーの狙撃だ。パァン、という銃声が遅れて聞こえてくる。
「僕らも撃つぞ、エコー!」
「う、うん!」
俺はフルオートにした自動小銃の引き金を、短いスパンで引き絞った。スタタタッ、スタタタッ、と銃声が響く。テント正面と裏面から同時に銃撃され、敵は浮足立っている。
俺たちは情け容赦なく弾丸を浴びせ、敵に反撃の隙を与えなかった。
テントはあっという間に焼け落ちた。しかし、逃げ出してくる敵兵の姿は少ない。やはり、前線部隊から派遣された偵察隊だったか。
あたりには、真っ赤な炎と、肉が焦げるような異臭が漂っている。炎は雨ですぐに下火となり、同時に射殺体や焼死体が目に入るようになった。
顔を顰めていると、アルファの声がヘッドセットから聞こえてきた。
《ブラボー、敵影は?》
《なーし。もう漁ってもらって大丈夫だぜ。ああ、俺の取り分もよろしく》
《了解》
その通信を聞いて胸を撫で下ろした、その時だった。
「ぎゃあっ!」
俺の真後ろで、エコーが悲鳴を上げた。
「大丈夫か! 何があった?」
さっと視線を巡らせると、エコーは足首を、負傷した敵兵に掴まれていた。
「どいてろ、エコー!」
俺は叫びながら自動小銃を構え、エコーを突き飛ばした。しかしそこから見下ろすと、怖くも何ともなかった。腹部を撃ち抜かれた敵兵が、憐れみを乞うような目でこちらを見上げているだけだったのだ。
俺はさっと銃口を下げ、敵の眉間に照準した。右手の人差し指に力を込める、その直前だった。
「た……すけ……」
自身の血でむせ返りながらも、敵兵は言葉を紡ぐ。
「助け、てくれ」
その言葉に、先ほどは全く感じなかった恐怖感が、ぶわりと湧き出した。背中から首筋にかけて、嫌な汗が滲んでくる。
俺は努めて冷静に、言葉を選んだ。
「あなたは助からない。今僕たちが殺さなかったら、あなたは明日にも、野生動物の餌食になる。生きながら食べられるんだ。その方が、よっぽど酷いと思うけど」
「そう、か……。よく喋る、兵隊さん、だ……」
その時、どうして恐怖心を抱いたのか、ようやく俺には察しがついた。
言葉を交わすことで、『相手も同じ人間なのだ』ということが分かってしまったからだ。
すると彼は、意を決したように瞼を閉じ、ふうっ、と息を吐き出した。『撃ってくれ』――俺にはそう聞こえた気がした。
直後に発した銃声は、今も生々しく俺の耳に残っている。
※
「デルタ、大丈夫かい? デルタ?」
「ん? ああ、ルイス……」
呟きながら顔を上げると、ルイスの眼鏡姿が目に入った。屈みこんで俺と視線を合わせている。俺はと言えば、整備ドック一階の、安っぽいソファに腰を下ろしていた。
点々と照明が点いているところからして、夜になったらしい。
「デルタ、もうすぐ食堂が閉まるよ。早く晩ご飯にしよう」
「そう、だな」
俺は不思議に思った。こんなぼんやりした様子の俺を見て、ルイスは違和感を覚えないのだろうか?
「捕虜の件、残念だったね」
「聞こえてたのか? 俺とロンファの遣り取り」
「まあね」
あの後、味方の治療を終えた医師が駆けつけ、捕虜の容体を確認したらしい。しかし、最早手遅れだったという。ロンファに鞭打ちをされずとも、多臓器損傷で長くはなかった、とか。
ロンファは厳重注意を受けたが、それだけだ。
黙々と、ゆっくりとカレーライスを口に運ぶルイスを見ながら、俺は一体何のために戦っているのか、よく分からないでいる自分に気づいた。
※
翌日、早朝。
いつも通り、作業着に着替えて整備ドックに向かうと、皆がどやどやと出てくるところだった。
「おい、何があった? 朝礼とミーティングはどうした?」
見慣れた顔の二等兵を捕まえて尋ねると、彼もまた困惑顔で首を傾げた。
「取り敢えず大会議室に集合しろ、とのことです」
「大会議室?」
大会議室といえば、あまり使われる機会のない、言ってみれば神聖な部屋だ。会議室であるわけだから、誰かが話をするんだろうが、一体誰が?
「ああ、そうか」
呟きながら、俺は肩を竦めた。話、というか演説をするのにうってつけの人物がいるではないか。ワイルドット・スランバーグ将軍である。
そうか、彼の来訪は、一部の兵士・整備士にしか知られていないのだったな。
面倒だが、俺は正装すべく、一旦自室に戻ることにした。
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