在職日数11日目
「おや、タロウくん、さっそく夕食ですか?」
「あぁ、これはこれは、ミスター・……ジューゼ?」
先程聞いた口調だったのでジューゼかと思い振り返ったが、そこにいたのは腰の曲がった老人だった。木のうねった杖を突いて、淡い笑みを湛えている。
「ジューゼ学寮長! 寮長もご夕食ですか!?」
「えっ!?」
やはり彼はジューゼ……。いやしかし、ついさっき見た彼は若者の姿ではなかったか。もしやヒレがうんたらは本当なのか!?
「ええ、日々の晩酌がなければこんな老人に楽しみはありませんからね」
「そんなこと仰って! まだお若いじゃありませんか! それに、あたしたちが話し相手になって差し上げますよ!」
なんだ、やはり敬語も使えるんじゃないか。太郎は混乱のあまり、この場ではどうでもいいことを考えてしまう。ああ、違う。小さく首を振って内容を強制的に戻し、理解しようと努めてみるが、理由の知らない事項を考えても答えはでなかった。
果たしてまだお若い、という言葉は、どちらの姿に対して発したものなのだろう。
「あ、あの、ミスター・ジューゼ? その……先程とは雰囲気がずいぶんと、変わられたように感じますが」
「あー、これですか。人面魚のヒレの効果が切れましてね。なので、これから晩酌です。タロウくんもご一緒にいかがです?」
「え、晩酌、ですか? つまりお酒、ですよね? 宜しいのですか? いや、まぁ、そこまで仰るなら……」
ひょんなことから酒にありつけてしまったようだ。そういえば最近は忙しさから、飲酒は控えていた。誘われてしまっては断る理由なんてない。本日は散々な目にも合っている最中だし、少しだけなら付き合ってもいいのではないか。喉の奥がごくりと鳴る。
「して、ミスター・ジューゼは何を呑まれるのですか? やはりビール……いや、ウイスキーやワインなどでしょうか?」
「はぁ、ボクはニホンシュを」
「に、日本酒があるのですか!?」
願ってもない話だ。まさかここに日本酒があるとは。いやいや、しかし現実的に考えるならここは異世界でもなんでもなく、日本国内であるべきなのだし。それならあっても不思議ではないか。
「ええ、ニホンに渡ったときにハマってしまいましてね。けれどここで造るのは大変でした。コメはなんとか育ちましたが、発酵技術がありませんからね。スライムのあぶくで代用しています」
「ぅ……」
もう訊き返す気力もない。それがどういうものなのか。口にして安全なのか。テーマパークのなぞりだとしても、一気に食欲が失せるというもの。
「寮長様、本日もご苦労様です。はい、いつもの。今日のつまみはプチ=クラーケンもおまけしておきましたよ!」
すると先程の豪快な料理番が何かを届けに来たようだ。状況から察すると、それはやはり、この学園で言うところの『ニホンシュ』のようだった。隣には魚のヒレと、スルメのようなものが置かれている。
「ありがとう。あぁ、タロウくんの分も――」
「い、いいえっ、結構です! 今日は、疲れていますし、その明日もありますしね!」
適当に理由を付けて断ってみる。取りあえず空腹ではあるので、親子丼とコロッケをかきこみそそくさと食堂を出る。人には帰省本能があるというが、本当にそれを体感したのは初めてだった。気付いたら――足を踏み入れたのは二回目なのに――自室に戻って来られたのだ。
窓の外はすでに暗く、もう本日の終わりを考える時間になっている。時刻が分からないのが気になるが、まぁ、寝て朝になれば自然に起きるだろう。老体は勝手に目覚めるものだ。
脱ぎ捨てたスーツを再び放り投げ、ベッドに体を預けた。
「おはようございます、タロウさん!」
「ふぇぁ!?」
驚いて変な声をあげてしまった。朝起きてみればきっと、この悪夢から目が覚めているのではと思ったが、やはりそういうことはなかった。残念だ。何度目か知らない落胆を味わったが、いまはそれどころではない。
ライランが勢いよくドアを開けて、勝手に乗り込んできたのだ。ここは太郎の部屋だというのに、これでは気が休まらないではないか。……いや、もしかしたら自分が鍵を締め忘れたのかもしれない。
それに向こうはジューゼも一緒のようだ。寮長ならばマスターキーぐらいは持っているだろう。いまの寮長は、最初に見たときと同じ、若い姿だった。
「ささ、しゃきっとしてください! 今日はタロウさんにやってもらわねばならないことがあります!」
「はぁ、やってもらうこと、ですか?」
あくびをしながら不明瞭にそう答える。いったい今日はなんだというのだ。まさか今日こそ身代金の要求だろうか。それなら昨日の時点で逃げていればよかった。
「今日は編入の手続きと入居許可手続きと、リュウタロウさんの編入取り消しと入居取り消しを行っていただこうと思いましてね。あ、制服はこちらで用意していますので、これに着替えてから街へ行ってください」
「は……はい?」
そんなにいっぺんに言われても困る。何だっていうのだ。この総理大臣に何をさせると言っている。
「あっ、護衛はクオガに任せるので、安心してください。ジューゼ殿、制服をタロウさんへ」
「はいはい。そんなに焦らなくても、まだ役所は開いてませんよ」
と窘めてはいるものの、ジューゼ寮長は仕立て上がったものを手早く太郎の前に持ってくる。紺色のよく見る、馴染み深い男子学生服であった。しかも現代のものではない。それは太郎が学生時代に着ていたものに似ていた。
昨日の授業風景を思い出してみたが、二人だけの学生は背中を丸めていたので、服の大半は見えなかったし覚えていなかった。
「学ラン……ですね」
「いえ、わたしはライランです」
「え、いや、そういうことでは……。まあ、いいでしょう」
これは小ボケなのかそれとも意味が通じていないだけなのか分からないが、あまり深く突っ込むのは止めよう。またさらに訳の分からない話をされると面倒だ。つまりは本日の予定は、この学生服を着て街へ手続きに行かないといけないらしい。姪のクオガが護衛というが、監視役の可能性も捨てきれなかった。
しかし下手に暴れれば、向こう側も何をしてくるか分からない。断固として信じてはいないが、魔法とやらの脅威にさらされるかもしれないし、万が一日本が脅かされることはあってはならない。
「分かりました。その手続き、参りましょう」
「ありがとうございます! その、実は少々面倒なので、引き受けてくださって安心しました!」
「へ……?」
見ると、あの温厚そうなジューゼも苦笑している。何、どういうことだ。あまり芳しくない内容のものだったりするのだろうか。
その答えは、もう少し後に知ることになる。
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