在職日数10日目
暮れる太陽をぼうっと見ていると、何もかも投げ出したい気持ちになる。しかしやはり腹は減るものだ。自らが行動し実行し、そのひとつひとつが叶えられていく感覚は、懐かしいものだった。
スーツの上着を脱ぎ、ハンガーを探すが見当たらない。少し逡巡して太郎は、この世界では必要のない、必要だったものを、乱暴にベッドに放り投げた。
「えぇと……食堂、は――?」
すっかり失念しておりました。あのジューゼとやらに食堂や、ある程度重要な場所は訊いておくのだった。これでは腹が減る一方で、途方もない。取りあえず玄関までは辿り着いたが、そこからどう行けばいいのか分からなかった。
うんうん唸っていると、どこかで聞いた可愛らしい声が後ろから掛かる。
「タロウ……? やっぱりタロウだ! お昼振りだね!」
「え、あ、えーっと……ミス・クオガ・ブバール、でしたか?」
金髪のポニーテールを揺らしていたのは、昼間『魔法科』の教室で出会ったライランの姪だった。授業はもう終わったのだろうか。
「ミス……? は良く分からないけど、タロウ、違うよ。クオガは名前! ブバール・クオガだよ!」
「は……、いやぁ、しかし……そうですか」
薄々思っていたが、やはりファミリーネームを先に言っているようだ。日本人に合わせているわけではなかったらしい。それとも翻訳がうんたらと言っていたので、変に聞こえているだけなのか。あぁ、いや、他人の言うことを鵜呑みするなと先程思ったばかりではないか。
「にしても、どうしたの? こんなところで」
「そうでした。あの、食堂に行きたいのですが、場所は分かりますか?」
「うん、分かるよ! あたしもお腹空いちゃった。一緒に行こ?」
太郎が返事をする前に、クオガは手を取って勢いよく誘導する。初老の体では、若者の走りにあまりついていけない。そろそろ足がもつれて、こけそうになった頃に鼻孔をくすぐる良い匂いがしてきた。
「着いたよ、タロウ! 今日のメニューは何かなぁ?」
「あ、ありがとう、ございます」
若い子に手を握られたのは初めてだ。妻とは確かに手は繋いだし、それ以上のことはしたけれども、いまとなっては皆無に等しい。ただ単に太郎が忙しいからというのもあるが、歳を取ってしまえば、あまりそういう気にはなれないのだ。
いいや、そんなことよりいまは空腹を満たすことを考えよう。考えてもしようがないのだ。妻や家族とは、会えるときになったら会えばいい。
「ねぇねぇ、タロウも一緒に食べる!?」
「い、一緒に、ですか?」
少女とは言え、要人ライランの姪だ。ここで従わなければ、もしかしたら後々になって立場が悪くなるやもしれない。ライランの出身はどこか分からないが、その国との国交も考えるとここで断るのは危険かと思われた。
「分かりました。ご一緒しましょう」
それに普通の学生食堂に見えるが、何か勝手が違うかもしれない。郷にいては郷に従えだ。彼女に付いていれば、誤った作法もしないだろう。
にっこり笑ったクオガの後に続いて、タロウは盆を取る。大丈夫、ここぐらいは分かる。あとは職員に注文をすればいいのだろう。和食は置いているだろうか。
「えーっと、ヤング=コカトリスの親子定食にスマイル=ポテトマンのクロケットをお願いします!」
「あいよ!」
「……はい?」
疑念を飛ばしたのは太郎だ。自分の知識とはひとつも掠りはしない。辛うじて『ポテト』は分かったが、それ以外は何も分からない。
「そっちは?」
「は、あー、ええと――」
「タロウも同じのでいいよね!? おばちゃん、同じのもうひとつ!」
「あいよぉ!」
そんな勝手に決めないでいただきたい。得体の知れないものを口にして腹でも下したらどうしてくれよう。
しかし思ったより素早く料理が出てきてしまったので、太郎のそんな抗議は空しく呑み下される羽目になる。
「おや」
だが見たところ普通の親子丼とポテトコロッケだった。ははぁ、雰囲気というやつだ。魔法使いがひしめくらしいこの世界は、テーマパークの雰囲気づくりよろしく、変な名前を付けているに違いない。
昔、妻も友人とどこかの遊園地に出かけたときに、何やら妙ちくりんな料理の話をしていた。遊びの場では、そういう雰囲気を大事にするらしい。
鼻の奥に届く香りは、いつの間にか腹の虫まで活発にさせていた。クオガにまた連れられて、適当な席に着く。さて、この場所での初めての会食だ。そこまで大層なものでもないだろうが、粗相があれば日本が馬鹿にされてしまう。
「ねぇねぇ、ニホンはいいところ?」
銀色の先割れスプーンを片手に不躾に訊いてくるが、太郎の答えは決まっている。ここで胸を張って答えられないようでは、何のためにこの総理大臣を召喚したのかというもの。そうだ、ここで日本の良いところを余すことなく紹介しておけば、国際経済の回復も望めるかもしれない。
「ええ、たいへん素晴らしい国ですよ。わたくしが治めておりますからね。ミス・クオガも、機会がございましたら是非お越しください」
「へぇ、いいなぁ! あたしもたくさん魔術を習って、ニホンに武術を学びに行きたいわ!」
「武術……ですか? 魔法使いなのに?」
うん、と彼女は元気よく返事をする。つい口が滑って『魔法使い』なんて言ってしまったが、自分がここに慣れ始めていることがとても怖かった。
「ライランおじさまから聞いてない? ニホンからの交換召喚生は魔法を、学園からの生徒はニホンで武術を習って帰ってくるんだよ」
「あ、そうだったのですね」
それっぽいことは聞いた気がするが、はっきりとは教えられていない。つまりは柔道や剣道などを修行しに行っているということだろうか。彼はこちらの情報不足に関係なく話を進めるきらいがあるから困ったものだ。
「おじさまってば、すぐ話進めちゃうから、姪のあたしも分からないときあるのよね」
と思っていたら、親族からも良くは思われていなかったらしい。顔は良いのに残念な男だ。説明を省けば国民からの信頼は得られない。とは言え、自分も果たしてできているかどうか――想いを馳せて太郎は大臣らの顔を思い浮かべた。
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