主役度 ★★☆☆☆

在職日数9日目

 ライランは複数の書類に目を通している。あの後、俄然やる気になってくれたのはいいが、やはり社会科ではニホンに貢献をしている気にはなれなかった。だって学んだところで何を説くと言うのだ。数多ある知識も、能力ある魔法使いや魔獣の前では意味を成さないのだ。


「さてさて、これからどうなりますかねぇ」


 こんなことなら、先にニホンに旅立った交換召喚生を連れ戻したい気分だった。今年は都合により中止にして――、いや巧い言い訳が思いつかない。こういうとき、自分の素直さを少しだけ恨む。どうにか向こうに行った生徒は、十二分に文化を学んできてくれよ、と願うばかりだ。


 書面には、ソウマ・タロウの署名と、社会科を専攻する旨が書かれている。本当に社会科でいいのか、再三訊いたが、首を横に振ることはなかった。強情だが、何やら志すことができたらしい。それならば自分には口は出せない、とライランは教師心で、己より遥かに年上の生徒に信頼を掛けてやる。


「明日は、ご自身で手続きでもやってもらいましょうか。それと……リュウタロウさんのほうの取り消しもお願いしなければ」


 手元には太郎がソルアンジェルス大陸に召喚された書類と、その息子、リュウタロウが召喚されなかった書類。本来は若者を呼ぶ手筈だったので子息の名で書類は提出済みだった。その取り消しと、更新をしなければいけないのだ。


 急いで制作されたので簡素ではあるが、まぁ大丈夫だろう。また明日から色々とやることがある。ライランは軽いため息をついて、それでも口の端は淡く笑んで、少し体を休めようとソファに凭れ込んだ。




 ブバール=ブバルディア学生寮。学園の敷地から出て、左手に進むと、すぐにまた大きい建物にぶつかった。向かいには社会科の建物があるが、造りは雲泥の差だ。学生寮も校舎と同じように頑丈で華々しかった。それはゴシックやバロックというより、ロマネスクに近い。簡素だがきちんと整った壁、床、天井――ここは宝石ではなく、煉瓦のように積み上がった石であった――。日本家屋より高い空間が開放感を煽っていた。


「こんばんは、ソウマ・タロウくん。ボクはニーデール・ジューゼ。ここの寮長です」


 ガラス張りのドアを潜ると、爽やかな少年が待ち構えていた。ここは学生が寮長を務めるのだろうか。『くん』呼びなのは気になるが、学生は対等とあのライランも口酸っぱく言っていたし、ここはぐっと我慢する。


 ニーデール……、はてどこかで聞いた名だ。


「すでに姉とは会ったと、ライラン学長から聞いています。保険医のニーデール・フィカ、彼女はボクの姉でして」

「あっ! あの、モケモケの……!」


 太郎が姉をモケモケと称したので、弟のジューゼは口元を押さえて軽快に笑っていた。あまりそう言われないのだろう。仕方ないのだ。人の顔と名前を覚えるのは慣れたが、状況が状況では、どうにも頭に入ってこない。


「おっと、申し訳ない。モスキートケサランパサランですね。ボクも昔行きましたが、ニホンでは滅多に見ませんから」

「え、そうなんですか?」


 とは返したものの、どこに突っ込んでいいのか分からない。昔日本に来たことか? それとも綿毛は滅多に見られないことか? 滅多に、ということは稀に日本でも見られるということなのだろうか。


 それにあの小学生の娘が姉だと言っていることも少し引っかかる。ナントカのヒレを食べて若返ったと言っているが、そう妄言しているだけの可能性が浮き出てきた。誰か知らない俳優と子役を並べて、家族や地位の役職を与えられているだけの他人のお遊び。


 大掛かりな建物まで用意して、自分をたばかっている。そう考えるとまた脂汗が噴き出てきた。眉間を揉んでいると、ジューゼは疲れているのだと勝手に合点して部屋に案内してくれる。


「おお、今日はお疲れでしょう。お部屋に案内します。さ、こちらへ」


 丁寧に指の先まで神経を研ぎ澄まし、まるで社交ダンスに誘うように誘導してくれる。若いのに大したものだ。


「いやぁ、それにしても懐かしい。ボクがニホンに渡ったのは、八十年ほど前になりますか。血の気が多い時代でしたが、その分、華やかでした」


 乾いた笑い混じりに、ジューゼが軽口を飛ばす。懐かしむように見てきていない世界を語るのは、さすが役者と言ったところ。……もしかして、もしかすると、本当に経験したのかもしれないが。


 太郎の頭に、生物実験場の他にタイムスリップ先の選択肢が現れたときに、案内役のジューゼは停まった。


「こちらです。本来は同学科のふたり一組でシェアしていただくのですが、生徒もいませんしまだ慣れないところもあるでしょうから、ひとり部屋を用意させていただきました」


 言って開けられた木の扉の先は、夕日が射し込む簡素な部屋だった。床と天井は相変わらず石畳だったが、壁は寄木細工のような木造の触感だ。温かみがあって落ち着いた。


「あと、こちらは一日のスケジュールです。夕食は食堂にて、六時から十時までの間にお済ませください。十一時消灯。それまではお好きにくつろいでいて構いません。鍵はこちらです」

「は、はぁ……」


 まるでホテルで配られているような冊子に、ホテルマンのような説明をされると何とも拍子抜けだ。確かに日本では重要人物であるし、厚い対応も悪くはない。むしろそうされるべきだった。いままでだってずっと。


 ジューゼが恭しく一礼し、この部屋を後にする。パタリと閉められた扉を見つめると、急に心細くなってきた。この何も知らない世界の中で、たったひとり。恐らく唯一の、彼らの言葉を信じるなら、日本人。


 初めは何かのつまらないエンタメ番組だと思った。この日本国総理大臣の貴重な時間を削らせて、何が面白いのかと。しかしここまでくると、その可能性のほうが薄れてきてしまう。

 朝から夕刻まで拘束され、誰も探しにも来ない。誰も心配する素振りを見せない。誰も自分のことを、知らないし知っていてくれないのだ。


 思えばひとりになったのは、いつ振りだろうか。忙しさから忘れていた。ゆったりした時間は余計なことまで思い出してしまう。孤独と不安と、そして少しの安堵。


「もう少ししたら、夕食でもいただきに参りましょうか」


 独り言ちたが、誰も応えてはくれなかった。畏まる者もいなければ、車を用意する者もいない。新鮮な空気の中、それでも心持ち、すがすがしかった。

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