在職日数8日目
一度玄関を出て、社会科の教室へと向かう。ライランに連れてこられた先は、綺麗に整えられていたものの、他の教室に比べて簡素ではあった。太郎からすればこちらが本当に教室といった感じで馴染みがあり、日本の校舎を思い出す。
床は相変わらず光沢があるものだったが、壁は漆喰のようで落ち着いた。自然とスーツの衿を正してしまう。太郎がまだ国会議員だったころ、一度だけ息子の授業参観に出向いたことがある。そのときのことを懐かしく思い、やはり家族に会いたくなった。
「言っておきますが、本当に何もないですよ?」
ライランが申し訳なさそうに忠告するが、何もないに越したことはない。むしろそのほうが大歓迎だ。意気揚々と引き戸を開けてみると、その場にはたったの三人しかいなかった。
しかも教師も含めてだ。つまり生徒は――二人。それぞれが、ただ黙々とノートに文字を書いているのみ。授業中と言えばそうなのだが、しかし自習を行っているようで違和感が強かった。
「ええと……、彼らは、何を学んでいるので?」
これにはさすがの太郎も尻込みするというもの。だから言ったじゃないですか、と学長の若い声が幻聴のように頭に響いた。
「先も言いましたが、彼らはこの大陸の歴史や名高い魔術家、世の中の有り様について研究しています。わたしがこう言うのも何ですが……、社会を学んでもあまり特にはならないんですよ。自分の地位を高めたり、身を守ったりするものではありませんから」
「で、ですが……。例えば教師や、政治家を目指していれば、必要になるのではないですか?」
この教室に鎮座している老婆は、例えば駄菓子屋にいるような女性であった。この彼女を見ていると、しかしながら果たして教師になるのが幸せなのか分からなくなってくる。皺の多い顔では、起きているのか寝ているのかさえ見分けがつかない。
「セイジカ……はよく分かりませんが、講師になるには、ひとえに自身の魔法力で決まります。生徒が暴走したときに、抑制できますからね。彼女も偉大なる魔法使いでしたが、老化により魔力が落ちてしまったと、常々嘆いていました」
だからこのような辺ぴな社会科に、とライランは口をもごもごと動かし続く言葉を選んだが、どうあってもこの学科を卑下する単語しか思いつかなかった。学長である立場とはいえ、ここに対する偏見などは拭い去ることはできない。
老女の教師も自ら、自分の境遇を弁えているが、はっきりとものを申してしまうとこちらが申し訳なく思ってしまう。しかしながら彼女とて若い生徒二人を相手に後れを取ることはない。そのくらいの力は当然ながら残っている。
「そう、ですか。いやしかし、あの医者は――、フィカとか言うあの子は、九十を超えていると言いませんでしたか? だったら、この方も若返ることができるのでは?」
「人面魚のヒレには、若返り効果があるのは確かですが……それぞれ体質がありましてね。フィカさんは特にその効果を受けやすいんです。それに、ずっと若返っているわけではありませんよ」
かく言うわたしも、あまり若返り効果は受けないんですよ、とライランは笑う。そこまであっけらかんとされると、老いか若いか、どちらが都合がいいのか理解できない。大昔から伝承の、人魚を食べると――というやつだろうか。人面魚は聞いたことないが……。それに池の鯉の模様を人の顔と見間違えただけで、本当に存在するわけがない。
いけない、つい信憑性がない話を振ってしまった。人から聞いた言葉を鵜呑みにするなと、あれほど自分に言い聞かせてきたのに。日本とはかけ離れた世界を見ている代わりに、人を信じたくてしようがないのだろう。
だがヒレと聞くと、日本酒をキュッと行きたくなる。……旨いかどうかは知らないが。
「ご無沙汰しております、アヴァ・ササユノ女史。教科書を借りてもよろしいですか?」
「……おやおや、ライラン坊。久方振りじゃの。好きなだけ持って行きなされ」
丁寧に言葉を掛け、分厚い本を持ってくる。海老茶色の表紙には『大陸の歴史』と書かれていた。ペラペラと数枚めくってみたが、この人物がこうあってどうなったとか、歴史的な災害や事件などが書かれているばかりだった。
「ふむ……。まぁ、そうですな」
正直これを学んだからと言って、政界に――そもそも日本国に利があるかと言われれば謎だ。使われている用語にも馴染みはないし、持って帰ったところで説明のしようもない。しかし生徒を見れば、ほとんど文字を写しているような感じなので、他の学科のように魔法なんて危険そうなものを間近にしなくてもいいだろう。
適当に返事をして、この学科に興味を示していれば、しばらくは乗り切れるのではと思った。
「どうですか? あまり面白くはないでしょう。それよりもやはり、詠唱のひとつやふたつ、唱えてみませんか? もしかしたら何か反応してくれるかも――!」
「あー、いや、それに関しては、ですね。大変嬉しく思いますが、わたくしは、学生のときから社会を学ぶのが好きでして」
決して嘘でもないが、本当でもなかった。けれど自分には地道に進んでいくような、こちらのほうが性に合っているはずだ。
「そ、そ、それに、わたくしは日本国総理大臣ですから、そちらの社会にも役に立つと思いますよ!?」
「その……、気にはなっていたのですが、ソーリダイジンとは、いったい何なのでしょう?」
「は?」
思えばライランはいままで、太郎について何の畏れもなかったように感じる。この学園内ではきっと彼のほうが優位だからと勝手に位置付けていたが、やはりその名が何を意味するものか知らなかった。
いい機会だから教えておいてやろう。総理大臣とは、国で唯一の存在であり、その国民や土地を守り、支え、ゆえにトップとして立っている人物なのだ。
だがその説明をしても、はて、と首を傾げてポカンとするばかりだった。
「あー、そうですね……。大統領――いや、プレジデントとかと同じの地位でして。政治家ですよ。国を動かしている者たちです!」
「タロウさん、仰っている意味は何となく分かりますが、残念ですがこの大陸には同じ役職の者はいません。皆自分の身は自分で守れるので、他人の斡旋は必要ないのです」
「……え? いや、しかし――っ」
いくら言っても話が通じない。これが異世界の弊害か。自分はまだ、ここが異世界だと認めてはいないのに。
あれだけ違いを見せつけられたのに、いまだに信じられない己がいる。わなわなと震え、打ちひしがれる思いだった。いままで築いてきたものが、通用しないとは。
「タロウさん、どうしてもと仰るなら、社会科を専攻していただいても構いません。ただ行うのはひたすら研究と数回のフィールドワーク。わたしもサポートしますが。……耐えられなくなりましたら、すぐに報告してください。特別に途中からでも変更しますから」
「そんな……。では社会は、どのようにして動いているのですか……?」
独り言のように、それは床に落ちた。優しいライランはそれでも拾って返してくれる。
「社会を支えるのは、我々ひとりひとりなのです。最低限の法律は存在しますが、破る者がいても取り締まる者はいません。だから、肉体や地位を守るために魔法が存在するのです」
「魔法なんてものは、わたくしは持っていないですよ」
「そうなのです。魔力が弱い者は生き残れません。それが掟ですから。強い者だけが生き残り、この大陸を発展させていったのです」
そんな、それでは、息絶えていった弱者が可哀想ではないか。人は人と支え合い、互いに尊重して助け合い、そうして繁栄を守っていくのだと漠然と考えていた。これではインディアンの世界ではないか。知識差はあれど、横暴が繰り広げられかねない。リンカーンのごとき人物は現れないのか。
人民の人民による人民のための政治を行わなければ、この大陸は滅びてしまう。魔法なんて便利なものがあると豪語しているのだから、もっと個人個人でなく大衆に意識を向けるべきなのだ。
「そうか、思い出したぞ」
「? どうしたのです、急に?」
自分がなぜ、政治家を、総理大臣を志したのか思い出したようだ。怪訝そうにライランは声を掛けてくれるが、丸まっていた背中を戻し、問題ないことを態度で示してやる。
「やはり社会科を専攻させてください。そしてこの世の中を見せてください。わたくしが、改革して差し上げましょう」
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