燃ゆる山脈

スコローグ

燃ゆる山脈



燃ゆる山脈






                  



『部屋にて起きた完全なる真実』


     1


 接続が断たれた。辿るはずの道を失った液があちこちにある管の裂け目から漏れ、噴き出した。

 低性能な回路を積載した本体は瓦解し、ネジは外れ飛ぶ。

 生涯に一度きり、一瞬だけの苦しみが去った。

 はじけた血肉が散乱した。パシャパシャ、と思いのほか柔らかい音を立てて。

 たったいま前任者を殺害したエコは持参してきた大きな袋の口をあけ、そこへ湯気立ち痙攣する塊を詰め込んでいく。

 肉詰めされるにつれて白い袋には斑点が浮かび上がり、底からは圧搾した果汁が滴っていく。その間隔もどんどん短くなって、量も増えていった。

 はちきれそうなくらい膨らんだ袋を持って、引きずる。白亜だった床に一筋の彩りが加わっていく。

 部屋は床も壁も天井も白。ことごとくが白だった。

 壁に寄せるように、エコは袋を放り投げた。

 袋の下から液が広がり、床が汚されているようであった。だがエコはそんな片隅の出来事にはまったく関心を向けないまま、自身の肉体洗浄の為に通路の奥へ引っ込んだ。洗浄室に入ると、自動で洗浄が始まった。

 体に付着した不純物が削ぎ落ち、無垢へと近づいていく。余分な過去、前任者の血と肉が排水口へと流れて行った。それにより全身が軽くなって、細胞が踊るようだった。

 洗浄が終わった。全身くまなくやったつもりだったが、それでも体臭に生臭さが残っていた。だがいずれ老廃物とそれらが混じって浮き上がるだろう。その上で複数回洗浄を行えば、この無様な不純物も取れるに違いない。エコはそう思った。





     2


 部屋に戻ってくると、肉詰めをした袋が消えていた。

 引きずって出来た跡も、放置して出来た水たまりもなくなっている。だが袋をよりかかるようにして置いていた壁、その壁の中心から一筋の血が垂れて、まもなくその先端部分のふくらみが壁と床の交差地点に差し掛かろうとしていた。止めるものもなく、やがてそうなった。

 運ばれたのだな。エコは袋の行き先を悟り、今頃は物体として存在しないであろう前任者であったものを思い浮かべた。つい先ほどまで動いて、つい先ほどバラバラになって、つい先ほどまで湯気たち血を流していたのに、もうあれが同じ世界に滞在していないのだと思うと、ひどく奇妙な気分となった。世界から自分の存在を立証するいっさいが抹消されてしまうのは想像以上に容易なのだから、自分はそうならないよう継続しよう、と決意を新たにした。

 ふたたび壁へと意識的に注意を向ける。壁、横長の長方形、そこの正確な中心点、すなわち血の始点から真下の床まで、一線が描かれている。しかし始点と線、そして真下の終着点以外の場所には、血は残っていなかった。飛沫一つさえ。

 作業場に近づく。背後には袋と血の壁。右には通路(奥にはさきほど洗浄に用いた小部屋がある)。前方には景色がくる。そこだけがガラス張りだった。

 エコは台に寄りかかった。深く体重を預け、気に入らず浅い体勢を取る。それでも気に食わず、浅くも深くもない位置へと落ち着くまでに時間を費やした。

 台にはボタンの羅列があった。

 エコは入室する直前に授かった、《啓示》を思い出す。それの指し示す正解に従い、エコは機器の電源を入れた。

 間をおかずに外の世界から音がした。最初こそ地鳴りのようであったが、それがなだらかに変容していく。骨が折れたり、泡が弾けたり、泥が落ちるような響きを往ったり来たりする。それらも次第に薄れて行って、静寂が訪れる寸前には、擦れあって綻ぶ錆や闇に住む怪物の慟哭のような音が混じるようになった。

 ガラスのむこうには山脈があった。

 地平を覆い、どこまでも続きそうな連続と高さがあった。部屋と比較的近い場所なら山の表面の溝や凹凸までもがはっきり分かった。反対に遠方は霞がかって、あいまいな陰影がたゆたうばかりだ。

 もしこの星の何処かに、ここの昼を写した半年以上過去の写真が現存しているなら、そこには陽にきらめく海と岸が、そしてそこで水や砂を撒き上げ、思い思いの娯楽に興じる人間の群れが捉えられているはずだ。その時に山脈はなかった。その影さえ。

 だが山脈も始まりは惨めなくらいにずっと小さかった。突然出現したり、聳えたわけではなかった。あれを構成する「土」が積み重なって、徐々に徐々に――あらゆる自然がそうであるように――大きくなった。今もなお膨張している。それが止まる心配など、エコの内によぎりすらしなかった。

 山脈は人間の肉だった。流れ経つ時に犯され腐敗した人間の構成物、それらが山脈の土壌であり、地層であり、根であり、すべてであった。

 積もる肉は重力によってだらりと垂れている。顔は骨格が変わってしまったと誤解しかねないほど、空の方は骨ばって、地の方は膨らみ、のびている。

鼻と口からは黒い汁の痕を残す。

 ほとんどに目玉はない。焼けたり、溶けたり、ここへやって来てから食べられてしまったからだ。 

 だが瞳を残しているものもわずかにいた。

かつてしっとりと濡れて輝きを放ち、物、出来事、世界を映していた目。

だが目は目で無くなってしまった。

水気を失い濁ってしまった今はしぼんで枯れている。

それはただ一点を見ている風を装う。

その実、なにも見てなどいない。

 山々のあちこちで乱れ舞っている黒い霧。霧は黒い小さな点の集合で、点の正体は蠅という蟲だ。ガラスの外側にも多くがびっしりと休んでいる。

 その姿形の美しさの反面、死肉、汚物によって誕生と繁栄を享受するという醜さを本質とする者共は山のいたるところへ頻繁に降り立って、六の脚を使いせわしなく動き回る。感情の起伏を表現できないが為に、まるでそれを持ち合わせていないかのように。ただ貪り続ける。

 いずれ焼け焦げるとも知らずに。

 エコは意識をこちらの世界、内側に移行した。

未だ自分の《意味》を果たしていないことを思い出したからだ。

 記憶と感覚の始まりもしくは誕生から、この部屋にやってくるまで何千と反復した手順を踏んで機器を操作する。まるで音色が欠落した独奏。邪魔するものも無く、決まったリズムで進んでいく。

 山脈の各所で小さな火が灯っていく。なぜそうなるのか、エコにはわからない。燃えだす直前、いくつかの死体が転げ落ちていく様や、その付近で火花が散ることは知っている。だがそれらの原因や機構はどうでもよかった。知識が有ろうと無かろうと、操作をすれば肉の山は燃える。それさえ知っていればいい。

 表面の地層から水分が蒸発し、肉は炎が灰や炭に変わる。これによって山脈の一部は気体になって、結果縮小する。下から現れた新たな地層は焦げ腐敗を免れる。

 エコはそこで火を鎮めた。この日の《意味》は既に果たしたからだ。

 一日目を終える前に、エコは《保存記憶》を行った。












     3


 朝の空には茜が差していた。しかしそれも世を覆う深い黒により、届くのはわずかばかりとなっている。

 蠅たちはあいも変わらず仄暗い空を泳ぎ、腐敗の区別など無いかのように肉を食んでいる。おびただしいその大群が動くたび景色にノイズが乗る。この場所がある限り、それはいつまでも続くような気さえした。

 活動の始まりにエコは体を洗浄し、それが済むと部屋の埃を払う。床や機器を磨き上げ、窓を濡らして拭いていく。こうやって定期的にやらなければ、どこからか湧いて出た汚れがいずれは部屋の景観をぶち壊しにしてしまう。汚れてからいっせいにやるのではなく、常に清潔を保つのだ。この部屋が在って、エコも共に在る限り。

 まもなく《一雨》くる頃合いだった。しかし空模様が悪かったので、改善する必要があった。

 窓掃除をとりやめ、エコは作業に就く。だが操作の手順は、昨日とは違っていた。これまでにない動きで執行された作業が終わるや否や、呼応するかのように山脈全体が輝いた。空の黒により太陽が無価値になり下がった今、新たな太陽が、より近くに現れた。

 光によって山々の細かな陰影が浮き彫りになる。最後の焼却がずいぶん前であろう箇所では、体液や滲みだした脂がてらてらと光っていた。蠅たちは光に惹かれて翅を焼くものと、構わず死肉に群がるものの二つに分かれた。大多数がこれで焼け焦げて死んだが、エコの中にはこういった考えがあった。つまり、ここでいくら死んだとしても、奴らは明日にはまた同じくらいに増殖しているに違いないのだ。

 エコの考えを裏打ちするが如く、大群は膨大な縮小を被ったにもかかわらず、ふたたび巨大なうねりとなっていた。こういう類の生命、殺戮をも乗り越えてさらに数を増して跋扈する種に闘争を挑むのなら、始めから絶滅を前提としていなければならない、との教えをエコは思い出した。

 上空から唸り声が聞こえた。重く、全身を圧迫してくる声だった。それが段々と地上、山脈へ近づいてきている。

 ガラスに、部屋全体に揺れが起きる。揺れは間もなく最高潮に達し、外のそこかしこでは山に引っかかっていただけの死体が滑落していった。

 大翼をもった巨大な物体が黒煙を突き破るように出現した。その進路はエコの前、山の上を横切るものだ。

 山脈の直上で減速した物体は、産卵した。

 無数の小さなものが、尾の方から散布されていく。その数、千どころではなく数万はあった。小さなものは飛行時の慣性で斜めに落下する。あるものはくるくると回りながら。あるものは手足を力なく振りながら、それぞれが雨となる。

 人間の土砂降りだった。

 ある雨粒は腹から捩れたひもを放り出している。またある雨粒は上半身だけになっている。ちぎれ、分裂した細かい部品が更に矮小な雫となっている。それらが山へ降り注ぐ。殆どが接地の衝撃で潰れ、山は赤を浴びる。

 皺が刻まれた塊と乳白色が混ざったものがガラスに張り付いた。しばらくすると蠅が群がった。

 物体は去った。

 山脈は成長し、背が伸びていた。

 エコは照明を落とし本日の《意味》に移った。

 外は暗くなっていた。













『《保存記憶》内から抽出に成功した欠片――活動開始以降を抜粋。回収物が辿った思考過程とは』


 (一)

 《啓示》を受ける。《啓示》は、《意味》を果たす限り私に永遠が訪れると発した。

 入室し、前任者を破裂させる。

 前任者と部屋を掃除。

 自らの体を洗浄する。綺麗になった。

 その後で《意味》を執行。教授された通りに燃やすことが出来た。

 部屋。色は白い。中央に作業場。窓に向かって右に通路。外には人間の山。

 部屋。通路の奥には、洗浄室と排泄室がある。

 部屋。《意味》を持続し、私が永遠に暮らす場所。

 私はこれからその隅で眠る。


 (二)

 雨が降った。

 人間のどこかの肉が、窓にこびりついている。放っておけば蠅と時が処理してくれるだろうから、問題というほどでもない。

 今日も《意味》を行った。

 これから部屋の隅で眠る。


 (三十三)

 一日に七度、雨が降った。初めてのことだ。

 とはいえやることに変わりはない。

 だがかなりの近距離に新しく出来上がった山のおかげで、人間の体をより詳しく確認することができた。あくまで確認であって、知ることはできなかったが。

 なぜなら私は奴らの知識をまったく与えられていない。おそらく、生物らしいということだけだ。

 だから、生きている人間というものが想像できない。

 今日も《意味》を執行した。

 これから隅で眠る。


 (五十六)

 少し前にピークを迎えていた雨も、近頃はようやく減ってきている。これは実に喜ばしいことなのだと上が言っていた。

 どういう意味なのか私には理解できないが、喜ばしいと上が考えているのなら、それはきっと喜ばしいのだろう。

 雨が減っている。実に喜ばしい。

 死ぬまで私はこの死と灰で出来た山を焦がす。

 空から新たな死が降下してくる。

 この繰り返しだ。

 延々と。

 永遠に。

 喜ばしい。 

 この役目を担っているあいだ私は、「何か」でいられる。

 永遠のなんと素晴らしきことか。

 これから眠る。


 (百三十三)

 皮膚が炙られて、ブクブクと泡立つのが好きだ。

 その泡がより膨らみ、ポンと弾け脂が飛ぶのが好きだ。

 脂で火が強くなり、肉が炭化して黒ずんでいくのはより好きだ。

 我々と違ってひたすらにゆがんで醜く、組成的にもはるかに劣った人間という種族。それらが瓦解していく様が、次第に私の中で娯楽として認識されてきた。

 喜びと娯楽が、同時に供される。

 これは、喜びや興奮を超えたものに違いない。

 だがこれに付ける名を我々の語は持たない。

 人間たちはこれを知っているのだろうか。

 私は彼らが言語体系を持っているのか、幾度となく見てきた彼らの体とその中身がそれぞれどんな役目を担っているのか知らない。

 あの四つの細い出っ張りと、ポコリと突き出た奇妙な、穴と突起物にまみれた部位は何をつかさどっているのだろう。どうでもいいことだが。

 大事なのは、この状況が持続することだけ。

 いいや、それを憂うことすら杞憂だ。

 私は続く。

 眠る。

 だが、おかしな話ではないか。

 私は永遠なのに、永遠が保証されているのに、眠る必要などあるのだろうか?


(三百五十)

 外の、部屋を支える柱にサビらしきものが見えた。

 妙だ。

 もし私の仮説が正しいのなら、部屋は永遠ではないことになってしまう。

 少なくとも、改修や建て直しを要するだろう。

 では、私は?


 (四百)

 これを最後に、もう記録はやめにする。

 この記録中断の決定は、あらゆる変化に含まれない。なぜなら記録自体に意味がないからだ。無意味から、無意味に移行しただけの話だ。

 喜ばしい日々。

 持続よ永遠なれ。

 永遠よ私であれ。

 なにも変わりなどしない。  























『意識下対話。回収物記憶日数、地球時間における三百六十。我々の周期換算においては十三)』


 覚えているかね。前任者を。君が殺した。


 はい。


 理由がわかるかね。なぜ彼を始末させたのか。君に。


 そうしろと、命じられました。


 意図を読みなさい。なぜ、君は、彼を、始末した?


 ……思い付きません。


 それで結構。優秀だな君は。君の心も、わきまえているらしい。自分が思い描くべきものとそうでないものを。我々はそれを才と呼ぶ。前任者には、それが欠けてしまっていた。いや、欠けていた、では正しくないかもしれない。それを異常なほど備えていたが故に、我々にとって不要となってしまったのだ。いいか、この《持続》において、想像力というものに価値は付かない。一つの物事がひたすらに持続する、という事象において、一体どこに想像力の居場所があるというのかね。


 仰る通りです。


 君は優秀だからな、エコ。本当だよ。誰もが認めていることだ。もちろん、この私もな。しかしながらもう雨は降らない。この世界に、もう流すべき血は残っていない。


 わたしは、これからどうすれば。


 安心しなさい。君にとっては何一つ変わらんよ。 君も、変わらない。そのままだ。


 私の世界はここです。この部屋です。ここ以外の物事を、私は理解などしたくない。知ればきっと、恐ろしくなります。知れば知るほど、恐怖は増していきます。


 君のいう通りだよ。無知の中に君の喜びはある。さあ、ここへやって来たときを思い出しなさい。真っ白な部屋を。人間どもの山を。炎を。それらは永遠だとも。君にとって、紛れもなく永遠だとも。君の《意味》は、これからも永遠に持続する。


 私は、これからも永遠……。


 そうだ。なんて君はすばらしいんだろう。理想そのものだ。賢く、忠実で、想像力を全く欠いている。


 ありがとうございます。


 今までよく働いてくれたな。さようなら。


 はい。また会える日を心待ちにしております。






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