【信長に挑みし者達~ワレノブナガトカクタタカエリ~】其の十三【六角義賢《ロッカクヨシカタ》】

六角義賢ロッカクヨシカタは近江国・観音寺城カンノンジジョウを拠点としていた大名である。

北近江の浅井氏と対立していたが義賢の息子である義治ヨシハルが永禄6年(1563年)10月に重臣・後藤賢豊ゴトウカタトヨを突如として惨殺してしまう。

家中の信頼厚い後藤賢豊を喪った事により求心力が失墜し、観音寺城を一時退去するに至る。

義賢は浅井氏の侵攻を食い止めようと奮戦した。

永禄11年(1568年)足利義昭を奉じた織田信長と観音寺城で戦うも大敗を喫し本拠を甲賀郡に移し反織田信長勢力として戦う。

元亀4年(1573年)4月、鯰江城ナマズエジョウに入城した義賢(この時既に名乗りが法名・承禎ジョウテイに変更)佐久間信盛サクマノブモリ柴田勝家シバタカツイエ蒲生賢秀ガモウカタヒデ丹羽長秀ニワナガヒデらに鯰江城を包囲されるも信長の判断もあってかこれを凌ぎきった。

しかし、天正元年(1573年)8月、義賢と共に反織田信長勢力を築いた浅井氏・朝倉氏が滅ぼされると天正9年(1581年)4月の天正伊賀の乱の終結迄抵抗し、一時的に行方が定かでなくなる。

驚いた事に信長が本能寺に於いて横死した後の更に後の世に豊臣秀吉トヨトミヒデヨシ御伽衆オトギシュウとして仕えているのである。

義賢は慶長3年(1598年)死去した。(享年78歳)


(まとめ)六角義賢は歴史的な活躍は目覚しくなかったかもしれないが不撓不屈フトウフクツの精神と驚異的な生存力によって織田信長に敵対しても尚生き延びた稀有な存在として歴史に名を刻んだと言える。

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