第4話 ご苦労さん

「忘れちゃったんじゃない、久しぶりすぎて」

 しょぼんとした私に、スミコが暖かいロイヤルミルクティーのペットボトルを差し出す。自販機がどうかしてるのか、尋常じゃなく熱い。ひりつく指先を擦りながら、上目にスミコを見れば、にやにやと私の髪を指で掬う。

「それか、小猿じゃなくなったから」

「うー、やっぱりそれかな」

 長くなった髪を引っ張って、私は机にほっぺたをつける。冷えた木の板が冷たい。

「でもさ、他に人が乗ってたんでしょ。声かけるの恥ずかしかったんじゃないの」

「そうかな。そうかもね」

「寂しいのか、アヤちゃんや。もーう、仕方ないんだから!」

 絡みつくスミコを押しやって、私は深いため息を吐いた。


 断じて、失恋ではない。そうではなく、お風呂上がりの髪を乾かす時間がもったいないからだ。あんな酔いどれ爺さんに、声をかけてもらえなかったからって、傷ついてなんかない。

 だけど、私は髪を切った。真冬の凍てつく空気に、うなじが、後頭部が、痺れるほど辛い。

 ニットキャップは、スミコが編んでくれるらしい。申し訳なくて断ったけど、何がなんでも編むというので、その熱意が恐ろしくて全力で断った。でも、編んでくれるそうだ。仕方がない。

 凍える後頭部を守るために顔の半分までマフラーに埋めて、私はとぼとぼとエレベータホールに向かった。扉の前にいるのは、コンビニ帰りのおばさんと、キャップをかぶった痩せた小さな姿だ。

「あ」

 漏れ出た声はもこもこのマフラーに吸い込まれたが、私は小走りでエレベータに走り込んだ。

 お爺ちゃんは湯気の立つ紙カップを片手に、いつもの定位置で、酔っぱらったような顔をしている。LAWSONの買い物袋を持ったおばさんが3階を押したので、5階で降りる私は、奥に詰めた。

 ふっと息を吐いて、マフラーを緩める。後頭部に意識を集中するが、お爺ちゃんの気配はしない。

 エレベータが上昇する。

 私は階数ボタンが光るのをじっと見つめる。

 ちん、と音がした。

 3階だ。おばさんが降りていく。

「ご苦労さん」

 お爺ちゃんが小さく言ったが、おばさんには聞こえなかったようだ。振り返らずに、行ってしまった。私はそっと、刈りたてのちょりんと音がしそうな後頭部を撫でた。冷えた掌が、温もりを削り取る。

 扉が閉じて、また上がる。すぐに5階に着いて、ちん、と別れの音が鳴る。

「孫悟空」

 咄嗟に振り返る。お爺ちゃんは、コーヒーをすすっている。

 ゆっくりと扉が開く。

「悟空、だな」

 私は頷く。そして、ふと、気がついた。

 操作パネルの、たったひとつ残った光。黄色く灯っているのは、9階だ。

「あ、そうか!」

 お爺ちゃんがにやりとした。開ききった扉は、閉じ始めている。私は扉を手で押さえながら、慌てて向こう側へ出る。振り返りながら、声を上げた。

「5階と9階だから!」

「だから、ちゃんと言っただろう。5・9、悟空だなって」

 冬だというのに日に焼けた顔が、いひひ、と笑った。扉はゆるゆると、私とお爺ちゃんとを隔てていく。細く残った隙間から、お爺ちゃんの面白がっているような声が聞こえた。

「だから、さっきは、ごくろーさん」

「ああ!」

 おばさんが降りて行ったのは、3階だ。

 なるほど、だとすれば、私に声をかけなかったあの日は、髪が伸びたからじゃなくて、人が多くて語呂合わせができなかったからだ。

 て、ちょっと待て、5、9、3じゃ、ごくろーさん、にならないじゃん!と思った時、私の脳裏に、おばさんがぶら下げていたコンビニ袋が蘇る。

「ごくろーそん……て無理矢理か!」

 閉じた扉のガラス窓から、お爺ちゃんが満足そうにコーヒーをすするのが見えた。

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