五月十六日⑤


 七五三野しめの家が帰宅したのは、丁度日付の変わる時分だった。彼らの家の周辺は、学生街が程近い。時折聞かれる若者たちの声と、遠くからの車の音くらいが、聞こえてくるものの全てだった。

 円歌まどかは大して飲めない酒のお陰で、大層いい気分になり、帰りの助手席ではいびきをかいて寝ていた。運転手はその日何度目か、数えるのも馬鹿らしい苦笑いをし、ハンドルを握っていた。詩歌しいかは後部座席で相変わらず、ぼうと外の景色を眺めていた。

 宏輝こうきは家に着くとまず、寝ている母を車から引き摺り出し、彼女のうわ言に「はいはい」と言いながら、肩を貸して歩く。玄関を開け、靴を脱がし、ようやく苦労してリビングに辿り着いたところで、ソファーに身体を預けさせ、掛け布団を持ってきてやって、酔っぱらいを寝かしつけた。

 それから時刻を確認すると、自身も二階の寝室に向かっていった。

 詩歌は二人の行動を特に手伝うでもなく暫く見守っていた。宏輝が立ち去った後で、風呂に入るべく洗面所に赴く。当然何もせず湯船は温まらない。浴槽の追いだきボタンを押してから、詩歌は書斎へと足を向けた。


「――――」


 昨夜と全く同じ要領で、灯りを点け、窓を開け、本を取り出し、HOPEと書かれた煙草をくゆらせる。今日もいつの間にか、、、、、、綺麗になっている灰皿に煙草を預けつつ、紫煙を宙空に吐き出した。

 一日の終わり。今日も七五三野詩歌は書斎にあり、何かの感傷に浸るように机に向かっている。


「――詩歌」


 何者にも邪魔されぬと思われた空間に、そんな声が聞かれた。呼ばれた本人はゆっくりした動作で振り返り、「なに。母さん」と答えた。立っていたのは円歌である。

 母は娘を呼んでおいて、すぐに言葉を発しなかった。部屋にも入ってこない様子で、廊下の暗がりから詩歌を見据えている。詩歌は黙って母を見上げたまま、一口、二口と煙草を吸う。やがて――


「学校は楽しいか」


 と、母円歌は問いただした。

 何故そんなことを訊くのだろうか。何故そんな――年頃の娘に対して、何を話して良いか判らない、父親のような質問をするのだろうか。

 そういう問に対する推察は、対して難しいものではあるまい。七五三野家は父親のいない家庭だ。だったら、円歌は円歌であると同時に、多少なりとも、一輝かずきでなければならない。その役目は、宏輝には荷が重すぎるものである。

 だから先ほど、宏輝にも、内容は違えど同じような意味合いで、敢えてどうでもいいような適当な話題を持ち出したのだ。ただ、やはりそれは第三者的な推察の域は超えない。核心と本心とは、円歌という意識の器の中にあって、決して探れ得ぬものなのだ。


「楽しいよ」


 数秒の間は、短いのか長いのか。詩歌はたっぷり時間を空けて答える。アルコールの影響で顔全体は紅潮しているものの、それ以外にいつもと変化はなく、無表情だった。ただその瞳は、どうやら、母の次なる言葉を待っているように、一点を向いて離れない。


「――まあ、ほどほどにな」


 詩歌の発言からさらに数秒を空けて、円歌は小さく笑いながら言った。それから手を振り、二階の自分の寝室へと向かっていった。後には再び、詩歌ひとりが残った。

 僅かに、ひゅう、と音を立てて、晩春のやや冷たい風が書斎に吹き込んでくる。机の上の本は、それに預けられて、ぱたぱたとぺーじを繰っている。灰皿から立ち上る一本の煙の筋は、途中でいくつにも分かれて、部屋の中を霧散していった。

 円歌を見送った後、詩歌は再び机に向き直る。それから煙草を一口大きく吹かして、あごを左手に預けた。その様は、何かを考え込んでいるようだった。

『ほどほどに』とは、物事の行き過ぎを戒める言葉である。それを円歌は口にした。詩歌に向けて。ただ残念ながら、母の言は主語を欠いていた。即ち、何に対して、、、、、注意の諫言を向けたかは判断しようがない。だからそういう言葉を聞いた人間は、あれこれと胸中に心当たりを問い質さねばならなかった。

 夜更かしし過ぎないように。風邪をひかないように。煙草を吸い過ぎないように。アルコールを飲み過ぎないように。

 心当たりはいくらでも挙げられよう。ただどれに対して(あるいは全てかもしれないが)、明確に注意すべきであるか。

 考え過ぎだと言われれば、きっとそうだろう。ただ詩歌としては、何かはらわたに落ちない様子で、また一口大きく煙草を吸う。吐き出された紫煙は、窓から出て、夜の闇に消えていった。


 やがてどこからか間の抜けた機械音が鳴る。風呂の準備ができたことを知らせる音だった。

 詩歌はとっくに根本まで燃え尽きた煙草を灰皿で押し消し、部屋を出る。

 風呂に入って寝床に就けば、今日はもう終わりなのだ。明日も早い。考え事などせずに、さっさと睡魔に身を委ねよう――詩歌がそう思っていたかは判らぬ。

 ただ彼女は、ひとつ『ほどほどに』注意を受けるべき事柄に、心当たりを見つけてしまっていた。それは詩歌にとって、特にアルコールで濁った意識にただよう今の詩歌にとって、堪え難いものだった。

 本を棚にしまって、煙草と灰皿とライターを机の抽斗ひきだしに戻す。灯りを消して、部屋を出て、風呂場に行く。そのとき洗面所の鏡に映った顔は、どんな様子であったろう。

 七五三野詩歌は鏡に向かって、非常に彼女らしくない風で、舌打ちをした。


 深夜。

 どこかで携帯電話の音が聞かれた。あいにく、どこからかは判らない。

 次いで、何かを呼ぶ声がした。今度はどこからかすぐに知れた。開け放しにされた窓の外から聞こえたのだ。


「にゃあ」と、詩歌を呼ぶ声がした。

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