五月十六日④


「では宏輝こうき、俺はこれで。ついでに詩歌しいかも。また明日」


 ついでは余計だ、と立ち去る大きな後ろ姿に呪いめいた言葉を詩歌は吐くが、シュンは気にせず、自分の帰路に就いていた。どちらとはいえず邪険に扱っているように見えるものの、詩歌とシュンは本当に仲が悪いわけではない。とは宏輝の思うところであろうが、実際に心を見透かすことは不可能なうちは、二人が本気で喧嘩することがないよう、祈るばかりだった。

「ところで姉さん」鍵を開け、玄関に入る背中に声が掛った。呼ばれた彼女はほとんど気にしない風で、なに、と小さく返した。


「さっきメールしたけど、見てない?」

「――見てない」


 靴を脱ぎながらそれだけ答える。声色は変わらないが、どこか険のある言葉尻に、弟は今日で何度目かとなる苦笑いを噛み締めて、


「ちょっと遅いかもしれないけど、今日の昼ごはんは、カレーうどんを用意してあるよ」


 と言った。それに対して返答はない。やはり当然のように、詩歌は無言で相手を見ることはなかった。足早に洗面所まで進む背中には、『不機嫌だから話し掛けるな』と貼り紙がしてあるようだった。

 宏輝にとり、姉が何をして気分を害したのか判らなかった風である。

 詩歌の行動を逐一監視していたものがあれば、猫との触れ合いを邪魔されたことが、おそらくは大きな要因だと判断もつこう。ただ、ほとんど一瞬しか詩歌と猫とが一緒にいたのを見ていない身としては、それが不機嫌を囲う要因と断定するには至らなかった。

 詩歌は洗面所に入った。手提げバッグと買い物袋を足元に置き、手を洗う。毎日掃除はしているものの、本屋に埃はつきものだ。入念に手指を洗った。

 ふと。鏡の中の自分と目が合う。その自分は、面白くなさそうに、右眉をひくつかせていた。詩歌は手を拭いて、足元の買い物袋に視線を下ろし、誰にも聞こえぬ空間で、大きく溜息を吐いたのだった。


 果たして宏輝が用意していたのは、本当に、何の変哲もないカレーうどんだった。

 作り方は至極簡単である。昨日の残りのカレーに、出汁つゆを入れる。宏輝手製のだしで、特にたっぷり鰹節の風味を利かせた出汁つゆだ。それを入れてのち、沸騰しないよう弱火で混ぜ合わせて熱する。あまり沸騰させると、カレーの風味も出汁の風味も飛んで損なわれるのだ。うどん麺は冷蔵庫に用意してあった。下茹で済みである。流石に手打ちとまではいかないが、後からカレーつゆ共に数分を煮込んでコシが残る程度には、加減された茹で方だった。


「美味しい?」


 16:10、遅すぎる昼食を詩歌は摂っている。弟の問いに返答はないが、ただ視線すら合わせず、ひたすらにうどんをすする姿には、いちいち言葉での味の評価を訊く必要はない。

 確か昨日の昼もうどんだったはずだが、全く気にする様子もなかった。自主的に購入してきたカレーうどんは、『宏輝にあげる』とメモ紙が貼られて、冷蔵庫の中に追いやられていた。

 牛乳を取ろうとして冷蔵庫を開けた宏輝は、早々とそれを目撃してしまって、困ったように笑った。詩歌はその様子を視界の端で認めたものの、すぐに意識を食事に傾注させたのだった。


「母さん、帰りは九時くらいになるみたいだけど、どうする?」

ふぉまかふぇふるおまかせする

「了解」


 うどんを口に含んだまま行儀悪く喋り出す姿に、窘める言葉はない。弟の表情に変化は見られなかったから、詩歌のそれは、以前から直らぬ悪癖なのだろう。

 テレビの前に座りながら、宏輝はぽちぽちと携帯電話の操作をしている。母親に返事を送っているのだろう。その間に詩歌は最後の一本のうどんを、名残惜しそうに平げた。カレーつゆも全て飲み干した。食べ過ぎの懸念は、帰宅が深夜に及ぶ母のことを考えれば、度を超えたものではあるまい。

 詩歌はやはり、ごちそうさま、もなく立ち上がる。それから牛乳の入ったカップを持ち、ソファーに座った。宏輝の隣りである。ただすぐに宏輝は腰を上げてしまった。姉の食べ終えた食器を持ち、台所で洗っている。「自分で洗ってよ」とかいう会話は聞かれない。二人はそろって、相手がさもそういう風に立ち振舞うのを、当然のように思っていた。それは姉弟らしい、阿吽の呼吸の賜物だろうか。


「外食するとしたら、何が食べたい?」


 洗い物を終えた宏輝が、ソファーでなく食卓の椅子に腰かけながら言う。早速母から返事があったようだ。詩歌はテレビ画面に当てられていた視線を、やや上方にずらして思考に耽る。


「中華」


 時間にして数秒。詩歌の意見はそういうものだった。大体において、夜間の九時過ぎに営業している、気の利いた店はそう多くない。今日が平日なのも含めて、おそらくは消去法的に絞り込まれたのが、近所の中華料理屋だった。

「もしかしてあそこの?」宏輝は家の中にいながら、大体の位置を指さす。その表情には若干の反対意見があるようだ。七五三野しめの家を出て、大学や駅と反対方向に車を走らせること約五分。大通りに面した個人経営の中華料理屋があった。そこは頗る味の評判は良いものの、ひとつだけ大きな難点が存在する。


「宏輝は嫌なの?」

「美味しいけど、待ち時間が長いんだよね」


 不満気な弟の顔に、眉を震わせながら姉は言う。

 実際、味に文句はない。メニューが少ないのも我慢しよう。深夜二時まで営業しているから、それ以上の不平不満は贅沢だ。そんな意見を無視するほどに、その店は料理の提供に時間を有するらしい。

 では宏輝は何が良いか。姉は鋭い視線を向ける。宏輝は先ほどの詩歌とほとんど同じ格好で、宙空に視線を彷徨わせながら「――やっぱり、何でも良い」と、意見にならぬ意見をした。それから母に、『中華に一票』とメールを打ち込んで送信する。これで彼らの母が特別意見してこない限り、遅めの夕食は中華になるだろう。

 七五三野宏輝は、あまり意思表示をしない性質だった。おそらく自身の主義主張はあるものの、目上年配には迎合するきらい、、、がある。極めて日本人らしい。だから勿論、年長の詩歌にも、身体の大きなシュンにも、当然母親にだって逆らうことはしなかった。

 意見を戦わせるというのは、彼にとって、何かの禁句であるかのように、閉口を決め込むものだった。

 何故か? それは、周囲を見守る人々にとって、判断できるものではない。もっといえば、おそらく、宏輝自身にも判るまい。

 ところで。幼少の過日、生前の父親に対して、声高らかに意見を述べたのは、姉弟のうちのどちらであるだろう。


 結局、その日の遅い夕食は、車で大通りを二〇分ほど行った、チェーンストアの中華料理屋になった。仕事の疲れを自宅に引き摺って帰ってきても、なお往復で小一時間の運転を余議なくされる程度に、くだんの中華屋はさけられるべきものだった。はじめ詩歌はこの上なく不機嫌そうで(決して表情には出さないが)、母の運転する軽自動車の後部座席にあった。目の前では、母と弟が、大学のこととか、授業のこととかを楽しげに語り合っている。母円歌まどかは、仏頂面を決め込む詩歌をミラー越しに見て、苦笑しながら「麻婆豆腐なら、宏輝に作ってもらえ」と言った。

 中華料理のチェーンストアは、メニューも豊富だった。本場と違い、日本人向けに小皿サイズで、手頃な値段で、多種多様な食材を提供している。結果として、大の大人が満腹になるにはやや割高となるが、日常のささやかな贅沢としては、小市民の財布の予算を大きく飛び越すものでもない。比較的深夜まで営業しているのも、この際は七五三野家にとって都合が良かった。

 一同は到着し、席に案内されると、各々に好き勝手な注文を取る。このとき、あまりにも詩歌の気分が損なわれていたようだったので、円歌は酒精の入った飲料も注文の許可を出した。七五三野家の長女は、およそ周囲の印象とは違って、酒も煙草も嗜む程度の喫食をしていた。それもやや年寄り臭く、タバコはHOPEだし、酒はウイスキーの水割りなんかを飲む。流行のハイボールとかではない。「誰に似たのか」とぼやきながら、同じものを注文する円歌には、おそらく第三者の教育的批判を免れないだろう。

 宏輝は未成年だったし、帰宅の途の運転手である。酒は固辞して、熱い烏龍茶となった。


 それから小さな宴会は夜遅くまで行われた。仕事に追われる母は、もうすっかり大学まで通うくらい大きく成長した我が子を信じ、ろくに家に帰ってこない。大学講師と何とかという国立研究所の要員の二足の草鞋わらじは、知らぬ者には想像を絶する過酷さだろう。だからこうして、少しでも時間が空いたときには、愛する子どもと語らうのだ。

「宏輝」酒を飲み、頬に薄く紅が差してきた円歌は息子を呼んだ。「なに?」と彼は応える。円歌は先ほどまでのどこかおちゃらけた、、、、、、、呑み屋の雰囲気を一瞬どこかに隠して、訊いた。


「彼女はできたのか」


 その刹那、彼女ら三人の空気が止まった。母はほとんど真面目な顔で、宏輝の返事を待つ。宏輝はなにやら引き攣った面持ちでそれに対していて。詩歌ですら、知らぬ存ぜぬを決め込んでいるものの、視線を宙空に逸らしながら、唐揚げに伸びた食指をぴたりと止めていた。

「――――できるわけないでしょ」凍りついた笑顔を崩し、深く溜め息を吐きながら宏輝は言った。言いながら、既にぬるくなった烏龍茶を仰ぎ飲む。


「大体、なんでそんなことを訊くの?」

「そりゃあ勿論。彼女ができたとあっては、詩歌が悲しがるだろう」


 弟の交際事情に、何故姉が関係するのか。宏輝からの質問に対し、全く答えにならない言葉が吐き出された。それを受けて詩歌は、二人をそれぞれ一瞥すると、箸で掴んでいた唐揚げを一度放り出して、水割りのウイスキーの入ったカップを傾ける。すでに半分ほどになっていたそれは、一気に飲み干されてしまった。宏輝はしかつめらしい顔で、横に座る姉を見る。彼女はわれ関せずとばかりにメニューを手に取り、次いで注文するドリンクを選んでいる。


「そんな顔をするな、二人とも。先は長い。良い相手はきっと見つかるぞ」


 あたしでさえ見つかったのだからと、変てこ、、、な表情の二人へ豪放に笑いながら言った。宏輝も相槌を打つように、しかしぎこちなく、笑いで応える。詩歌だけは少しも顔色を変えずに、今日四杯目となる水割りを注文していた。

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