五月十六日③


「お先に失礼します」


 僅かばかり腰を折り、そう告げて、詩歌しいかは店の裏から外に出た。時刻は15:00。

 四時間ほどの勤務で、その日詩歌が対応したのは、みかを含めて五人だけだった。

 退屈と繁忙の、やや退屈よりの中間点。その本屋はそれが常であった。

 詩歌はその日、すぐ自宅に向かわなかった。寄り道を禁じられていたはずだったが、どうせ宏輝こうきも母も未だ帰ってきてはいまい。また、休憩なしで十五時まで拘束されたのだ。人間であれば、誰でも腹は減る。

 詩歌がそう考えたかは分かりかねるが、駅前のデパートに立ち寄った。彼女の目的は、地下一階の食料品コーナーである。

 そこは夕飯の買い物客と、学校帰りの学生たちとで混雑の兆しを見せていた。

 駅前とはいえ都心より一時間離れた地方駅。そこに併設のデパートは、世辞にも広大な敷地ではない。そこに百人も買い物客があれば、些かばかり騒がしいのは当然だ。

 詩歌は惣菜コーナーにまず足を運んだ。どうやら食い気が、彼女にとって現在優先される事態らしい。

 和洋中伊と色彩豊かな惣菜コーナーで、その日選ばれたのはカレーうどんだった。電子レンジで温めるとすぐに食べられるタイプのものである。

 昨晩は確かカレーだったはず。彼女の選択には、そんなにカレーが好きだったのか、とか、何故昨晩のカレーでカレーうどんを作らなかったのか、という疑問が浮かぶのは当然である。ただ周囲の人々は余所様の食事情への関心はなかった。


 当面の食事と二、三の買い物を済ませて帰路に就いた詩歌は、やや早足でいる。少しばかり買い物に時間をかけてしまったかもしれない。そう思われるように、いつもよりも急いでいるように見えた。

 ただ、モノレールに乗り、駅で降りてからは、やや緩やかさを取り戻した。そして、あるところまで来たとき、詩歌はふと足を止めた。


「こんにちは」


 彼女の視線の先には、昨日の猫がいた。全く同じ場所で、呑気に毛繕いをしている。

 その姿を認めた後で、詩歌はしゃがみこみ話し掛けた。詩歌の動作もまた、昨日とほとんど変わるものではなかった。


「おなか空いてる?」


 その質問もほとんど同じだったし、にゃあ、という猫の返事もまた同じ様子だった。

 詩歌は全く表情を変えぬまま、ごそごそと、手に提げた買い物袋を漁る。取り出したのは、大手メーカーの、よくCMで放送されている、有名なキャットフードだった。

 猫のおやつで四〇〇円とはこれ如何に。と詩歌が考えたかはどうかは分からぬ。ただペットコーナーに出向き、見馴れぬ商品群と値段とを見比べていたときの彼女の表情は、いつもの無表情なものではなかった。

 詩歌が買い物袋に手を入れた瞬間、対する猫は何かに驚いたか、僅か身体を仰け反らせたが、出てきたものを見てすぐに座り直した。どうやら彼なりに、それが自身を害するものでないと、本能的に察知したらしい。

 詩歌はその様子に満足したか、猫を軽く撫でてから、キャットフードの封を開けた。中身は個包装になっている。その内のひとつを取り出し、更に開封して、ぱらぱらと、直接アスファルトの地面に撒いた。

 皿も買ってくるべきだったか。そんな逡巡も感じられたようだが、一瞬を空けて、バラ撒かれた。

 猫は目の前の物体を注意深く見下ろし、前足でいくつかを弄ぶ。それから鼻を近付けて臭いを確認し、ようやく食らいついた。

 野良か飼い猫か一目では分からぬが、随分と用心深い様子だったが、差し出されたものが食料であると判った途端、彼は歓喜したように、無我夢中で口を動かしていた。

 詩歌はその様子を見て、昨日のように抵抗されないと判断してか、小さな身体を撫で回す。頭も背中も尾も。

 さらさらとした毛並みを確かめるように、しかし力は入れないように、ゆっくり手を動かす。

 猫が早くも個包装のひとつを平らげると、すぐさま次の袋がごそごそと取り出され、同じようにばら撒かれる。彼はすぐに、飛びつくように貪り食べる。

 詩歌はそれを確認してから、再び撫でる手を動かす。彼女の表情は、やはりなにひとつ変わっていない。


「――なにやってんだ、詩歌」


 個包装が五個目に達する前に、頭上から呼び掛ける声が聞かれた。それまで熱中のあまり他人の接近に気付かなかったのか。詩歌は誰何すいかの視線を上に向けた。


「シュンと、宏輝こうき


 見上げた先には、二人の男性がいた。片方は、何やら驚きの表情を顔面に貼り付けた弟。宏輝である。もう片方は、燃えたように赤い髪をした、すらりと背の高い、シュンと呼ばれた男性だった。


 シュン、とは、やはり大学一年からの詩歌の数少ない友人のひとりである。歳は十九。

 本名はオリバー・シュナイダーという、ドイツ人だった。

 髪を短く刈り込み、瞳は青緑色。鼻は高く、彫りが全体的に深い。両耳には控え目だが赤いピアスを着けている。身長は高く、日本人女性の平均の遥か上を行く詩歌を、更に頭ひとつ分持ち上げたところに顔があった。日本人が抱く西欧外国人の特徴を全て兼ね備えたような青年だった。

 とはいえ彼は家族の仕事で共に来日したものの、都内の付属高校から、大学へ無試験で推薦入学を果たした。多くの日本籍の受験生が受験戦争を戦うなか、ジャパニーズアニメーションに心を奪われのめり込んでしまった。

 そして遂に、生来のブロンドヘアを赤い髪に染め上げたらしい。詩歌と並んで歩くと、何も知らない周囲からは、とんでもない奇異の目で見られるような、そんな人間だった。


 にゃあ、と声を上げて、猫は姿を消してしまった。

 詩歌と全く違う性質を持った人間二人を見て、逃げてしまうのは無理もない。それに、随分とおやつ、、、を食べて満足感も得られたはずだ。

 詩歌は既に見えなくなった姿に小さく、ばいばい、と左手を振ってから立ち上がる。それから見上げた顔には、どこか非難めいた色があった。右の眉が、ぴくりと震えていた。


「猫か。

猫とは犬と同じく、我ら人類の友人だった。その愛くるしい容姿と、誰をしても完全に御し得ない自由奔放な有り様が、何故か広く受け入れられて今日に至る。彼らのように振る舞う人間がいたら、まず間違いなく軽蔑の眼差しと苛立ちの舌打ちを集める的になりそうだが、愛玩動物としての人気を、忠実で純朴な犬と、ほとんど二分している。

そのことについてどう思う? 我が友宏輝」

「いや、えっと、その」


 シュンは詩歌と視線を合わせるや否や、早口で一息に捲し立てる。言葉の端々をいかに拾い集めても、彼が元々はドイツ人であるとは思えない、流暢な日本語を操っている。

 そうして急にそんな調子のまま話題を振られた宏輝は、苦笑しながら、詩歌とシュンの顔をちらちらと見比べるのである。


「どうしてここにいるの、シュン」

「どうしてって―――俺の家は、君たちの家を通り過ぎて、真っ直ぐに行った場所にあるんだ。帰り道に親友の宏輝と肩を並べて、この世の真理について清談をしていれば、自然とここに行き着いて何の不思議もないだろう。

それともなにか。詩歌は、俺が邪魔だと言いたいのか」

「うん。邪魔」

Scheißeおい

なあ宏輝、お前の姉貴は、こんなに見も蓋もない奴だったか?」


 二人の一連の会話を、宏輝はやはり苦笑したまま聞いている。シュンは彼のことを親友と声高らかに叫んでいるが、端から見れば、親分と手下にしか見えぬ。

 詩歌はそんな彼らの様子をちらりと一瞥すると、背を向けて先に歩き出した。小さく、先に行ってるよ、と口にしながら。

 シュンはそれを受けて憮然とした表情をしたが、すぐに大股で後を追った。歩幅があまりにも違いすぎて、さらに後ろを続く宏輝は、ほとんど小走りだった。住宅街に、端から見れば、奇妙な三人組が賑やかに歩いていった。

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