五月十六日②


 詩歌しいかの外出先はアルバイトであった。彼女が健気にも、家に納める賃金を稼いでいるのでは、と聞いた数少ない友人たちは、一様に目を点にしたものだ。愛想のない普段の様子からして、笑顔で接客対応をする姿の想像がつかなかっただろう。

 その度に詩歌は、周囲の人々に『失礼すぎ』と不貞腐れたように言ったものだった。

 詩歌は家を出たあと、最寄りの駅に向かう。大学のほど近くにある、大仰な名前のついた駅は、ここ二〇年の間に出来た。

 七五三野しめの姉弟きようだいの通う大学を初め、数年をかけて、学府と新興住宅が誘致され、にわかに発展してきた土地。そこを東西で横断するように、学園都市線という名のモノレールが通じていた。

 最寄り駅から揺られること二駅。約八分。一際大きいターミナル駅に着き、さらにそこから歩いて五分。詩歌のアルバイト先があった。本屋である。大手のチェーン店でなく、個人が経営する、街中の本屋といったていをしていた。

 営業時間は十一時から十八時まで。経営者は隣に住む老夫婦。彼らは読書好きが高じて、息子が独立した後に本屋を開いた。ただそれはあくまで趣味の延長線上に過ぎず、経営はともく店舗の運営自体は、小壮の雇われ店長と、パートタイマー一名、アルバイト二名で行われていた。その内の一名に、詩歌は名を連ねている。

 七五三野詩歌がアルバイトをしている!

 それを認知した数少ない友人たちは、自分のことでもないのに何故かそわそわして、居ても立ってもおられず、連れだって勤務先を訪れた。

 あの能面に真心込めた応対などできるはずがない。口煩い客に目をつけられ、クレームをつけられて、辛酸を舐めさせられる。

 またもしくは、意外と仕事となれば、生真面目な性格を実はしていて、入店と同時に笑顔と愛想を振り撒いているのではないか。

 そんな両極端な不安と期待とを抱いて詩歌のアルバイト先を訪問した面々は、どちらかというと良い意味で裏切られた。彼女が普段となんら変わらない様子でそこにいたからだった。

 そもそもをして、客が少ない。駅に直結をしたデパートの中にも、勿論大型の書店がある。なにも五分も歩いて、学生や社会人がわざわざ来訪することはない。

 周囲には中華料理店とセブンイレブンがある程度で、何かのついでに、というものではない。ただ一応、学生街が近くにあるため、年度始まりや、夏休み明け、期末試験の直前にはある程度の集客があるらしい。それをして、混雑、というほどでもなかったが。

 とにかく友人たちは合点がいった。要するに詩歌のアルバイト先は、老人の娯楽である。利益のためではない。客のない本屋を運営するのに、どんな資質も必要なく、きちんと時間通りに出勤して、ずる休みもないような、当たり前のモラルを持っているだけで良かったのだ。


「おはよう、詩歌」


 開店してほどなく、その日の第一号客が詩歌に声を掛けた。

 詩歌は店の指定する赤いエプロンをして、本と本棚の埃を払っているところだった。


「おはよう。なにか探し物?」

「うん。物理の佐藤センセの参考書。ある?」

「こっちにあるよ」


 詩歌は指差しながら、声を掛けてきた女生徒を案内した。昨日のマナではない。マナよりも線が細い。どうやら姿は、詩歌の数少ない友人のひとりのようだった。


 彼女は滝川たきがわみかといった。詩歌と同学年である。

 少しばかり癖のある栗毛に、のほほんとした穏やかな性格を漂わせた垂れ型の目。身長はマナよりやや低く、詩歌と比べて二〇センチメートル近く小さい。

 濃紺のスカートに、緑のブラウス姿であった。

 地方の出身なのか、言葉の端々に、若干のイントネーションの揺らぎがあるものの、特に気に障るというものではない。

 酷く大雑把に分類して、高野たかのマナをアウトドア派とするならば、滝川みかはインドア派である。

 そんな特徴の彼女は、どことなく、男女ともに保護欲を駆り立てられるような、小動物を思わせる雰囲気があった。


「ありがとう。最初は要らないかなー、と思ってたら、やっぱり必要だと思って」


 詩歌の様子を見るついでに、と人差し指を口元に当て、いたずらぽく笑ってみかは告げる。

 来店の動機を告げられた詩歌は、特にそれ以上なにか言う風でなく、短い別れの挨拶をして仕事に戻った。店長のことを気にして、ではない。おそらくは大してみかに用事がなかったからであろう。

 みかは苦笑をひとつ表情に浮かべたものの、目当ての参考書を手に持ち、店内の反対側へ回る。女性向けのコミックや単行本のコーナーに行き、しばし立ち読みを決め込んだらしい。

 今日の彼女の授業は午後からだ。昼食は大学で摂るにしても、それまでは時間を潰さなければならない。


「――シュンは?」


 不意に、立ち読みの後ろ姿に声が掛けられた。みかが声の方を顔だけ向けると、はたきで埃を払う詩歌があった。手つきは慣れていて、さま、、になっているのだが、みかにとっては、どうやら何度見ても見慣れぬ姿らしい。


「うーん? 今日は二時限目からのはずだけど。なんで?」

「なんとなく」


 みかの言葉の『なんで』は、『なんで私に訊くの?』であるのか『なんでシュンが気になるの?』か、どちらであろう。ただ本当に、質問した理由が特にないのか、詩歌はそのままはたきで埃を払いながら、またぞろどこかに移動していった。

 みかは怪訝に首を傾げながらも、特別気にしない様子で、恋愛小説の続きに頁を繰った。


「三〇〇円のお返しです。ありがとうございました」

「じやあ、頑張ってね、詩歌」


 しっかりと友人の会計はした詩歌は、表情はひとつも変えずに、しかし営業用のワンオクターブ高い声でみかに報いた。

 その様子はいつもと大差ないのだが、どうにも普段の彼女を知るひとたちは、接客業を営む詩歌の姿に、ゾッとしない思いに駆られるようだった。やや頬を引き吊らせながら、それでも笑顔を取り繕って、滝川みかは店を後にした。


「お友だちかい?」


 レジの奥、事務所の方から詩歌に声が掛かった。店長である。

 その問いに対し詩歌はそのまま悪びれる風でもなく、はい、と短く答えた。

 実際、店長からは批判めいた雰囲気はない。詩歌を目的で来店し、買い物をしてくれるのであれば、感謝こそすれ文句を垂れる謂れはなかった。


「いやね、二〇歳かそこらの若者が、こんなところでアルバイトなのも、不思議なものだし。あ、俺がこんなこと言ったことは、オーナーには内緒だよ――七五三野さんは真面目だし、駅前の綺麗な書店とか、お洒落なブティックとか、そっちの方が良いんじゃないのかな」


 採用した本人が言うのも変だけど、と店長は小さく続ける。

 それは勿論そうかもしれぬ。ブティックはおそらく詩歌の性質上、万が一働き初めたとして、この上なく不似合いで、勤めあげられるはずもないであろう。しかし本屋であれば、賃金さえ同じなら、名の知れた大手で広々とした、綺麗な環境が良いに決まっている。現に駅前の本屋とこことでは、時給は同じ八五〇円なのだ。

 ただ詩歌が選んだのは後者である。大手チェーンには面接の申し込みすらしていない。

 それは、客数が多く、接客の機会が多いであろう環境を憂慮したためか。あるいは大手企業にありがちな、とことんマニュアルに沿った教育や運営を予想し、融通が利かないと判断したためか。はたまた、そもそもにして、詩歌を大手が採用してくれるはずがないと、自身を卑下していたからか。おそらくは、どれも的外れということはないだろう。


「――わたし、お邪魔ですか?」


 少しばかり間を空けて詩歌は切り返す。相変わらず眠そうな顔に、感情の変化は見られない。ただじっと、自分と同じくらいの身長の壮年の店長に、視線を合わせて問い掛ける。


「いやいや、いてくれて助かってるよ。七五三野さんを採用して、人を見る目に間違いはなかったと、我ながらにして妻に自慢してるんだ。ただね、ホント、ただ言ってみただけなんだ」


 店長は慌てたように手を振り、詩歌に返答する。彼の言うことは要領を得ないが、詩歌を知る人がいれば、店長の人を見る目と、かつてのこの店の従業員とを想像し、共にろくなものでないと思ったに違いない。

 しかしながら、どうやら彼の言い分は、彼にとって真実であるらしい。


「そう言ってもらえると、嬉しいです」


 顔を赤くさせながらフォローする店長に詩歌は告げる。ただ発言の内容と表情は少しも合致していなかった。いつもと変わらぬ、能面のままである。

 ただ返事を受けた店長は、一瞬目を見張ると一気に破顔した、

「いや、良かった良かった」と、何が良かったのかひとつも理解できぬまま、奥の事務所に引っ込んでいった。

 詩歌はその姿を訝しんで見送っていたが、やがて店内に向き直る。新たな来客があったようだ。

 このようにして、七五三野詩歌は、お世辞にも似合わない、本屋のアルバイトをしている。時給は八五〇円で、週に三日、平日一日と土日の勤務である。

 当初は友人知人の誰もが心配していたようだか、どうやらおしゃべり好きの店長とは上手くやっているらしい。詩歌もまんざらでなさそうだ。彼女は初めてのアルバイトで、当たりを引き当てたのである。

 ――ところで、七五三野詩歌のアルバイトをした理由とは、一体なんだったのだろう。

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