五月十六日①


 完全に失態を犯した。朝目覚めた詩歌しいかは、おそらくそう思ったに違いない。

 風呂にも入らず、歯も磨かず、布団にも入らないで、机を寝床としていた。身体に痛みが走る。

 立ち上がって全身を伸ばすと、色々なところから、骨と間接と筋肉の悲鳴が聞かれた。

 窓の外からはまだ弱い朝の陽が差し込んでいる。寝坊、とまではいかない時間のようだ。

 昨夜より持ち歩いたままのリュックサックから携帯電話を取り出す。淡いピンク色のそれをぱかりと開く。やや暗いディスプレイには、大きく6:14と時が記されている。

 また併せて、画面の端には、メールの着信を知らせるアイコンの姿もあった。詩歌は首を傾げる。

 この時間に起きられたのは不幸中の幸い。『アルバイト』もあったので、身体はやや痛みがあるものの、朝食を採り、風呂に入って、着替えても、充分な時間がある。

 ただ、昨夜から早朝にかけてメールが着ているのは、やや不思議な事象であるらしい。

 そもそも詩歌の連絡先を知っているのは何人いるだろう? 母と弟、高野たかのマナ、そしてあのひとたち、、、、、。極端に少ないわけではないにしろ、多いということはない。そしてまた、世間一般では非常識にあたる時間に連絡を寄越すような、緊急性を持った事柄について、詩歌は心当たりがなかった。

 それでも疑問はすぐに解ける。ボタンを二回押すだけで、メールはすぐに確認することができるのだ。


「――――」


 詩歌はいつもの癖で、右眉をひくつかせた。何か気に食わない、機嫌を損なうことがあったのだろうか。

 見ると、一通目は時間にして23:55、送り主は『弟』。題名はなく、本文も空だった。

 二通目も5:58、やはり『弟』からであり、題名も本文も、何も記されていなかった。

 巷でいうところの迷惑メールと、ほとんど変わらない代物ではないか。同じ家の中にいるのだから、用件があれば直接言えば良い。また、本文が空であるなら、そもそもメールを送る必要もない。

 今でこそ便利な世の中だが、考えてみれば、切手を貼って、宛先と自分の住所氏名を書いたものの、便箋を入れていない封筒と同義なのだ。黒山羊さんだって首を傾げるだろう。

 詩歌がそこまで思慮に及んでいたかは判然としないが、宏輝こうきの意図が不明なうちは、気分の優れるものでないだろう。

 ところで。

 七五三野しめの家を見守るひとがあったとして。また不届きにも、詩歌の携帯電話を盗み見るものがいたとして。もうひとつの疑問が浮上するのも道理でないか、

 なぜ詩歌は、『七五三野宏輝』を『弟』と登録しているのだろう。どうして『宏輝』ではいけなかったのか。どれも同義語である。

 詩歌の弟とは宏輝以外にないのだから、そしてこの先の将来で増えることもない。それに父母は名前で呼んだりしないだろう。どう登録しようが詩歌の勝手ではある。ただ、日本人的な感覚として、百人のうち何人かは、詩歌の登録名に、どこか釈然としない宙ぶらりな疑問を感じるはずだ。そして全く無念なことに、その疑問に対する答えは、直接詩歌の耳朶に触らぬ限り、第三者にもたらされることはないのである。


 結局詩歌は、やや不機嫌な気配を漂わせたまま、二階の自室に行く。そこで着替えを洋服箪笥から選び取り、今度は一階の洗面所にとって返した。

 昨夜は風呂にも入らず寝ついてしまった。不自然な体勢でいたので身体も痛い。熱いシャワーを浴びて、少しでも気分を立ち直らせよう――詩歌はおそらくそんなことを考えながら、ほとんど何の気なしに、洗面所のドアを開けた。


「――おはよう、姉さん」


 ドアの向こうには全裸の弟がいた。肩からバスタオルを下げているが、その他は生まれたままの恰好である。

 詩歌がドアを開けた瞬間、大きな目を瞬きさせて、突然の進入者を見遣る。とはいえ驚いたのは一瞬で、朝の挨拶をする余裕があった。


「宏輝もお風呂?」


 対する声にも動揺の気配はない。ただ洗面所内に立ち入るのは憚られるのか、ドアを開けたままで一歩も動かずにいる。

 宏輝は痩せ型の体躯をしていた。余分な脂肪も筋肉も付いていない。脂肪に至っては、必要な分すら削ぎ落とされたのではないかと疑うほどである。胸板は薄く、腹筋は割れているがそれは日頃のトレーニングの成果ではあるまい。

 肌の色は驚くほど白い。また頭髪以外の体毛は、ほとんど身体のどこにも見られなかった。

 顔形といい、体躯といい、一見すれば女性と見誤りそうなほどである。

 が、二〇歳かそこらの女性には生々し過ぎる物体が、確かに宏輝が生物学上の男性であると象徴していた。


「えっと、ちょっと待っていてもらえる?」


 時間が止まったように動かず佇む姉に対し、宏輝は不思議そうな顔で言う。すると姉は、今一度、彼の頭の天辺から足先までをじっと見回した後で、静かに扉を閉めた。


「早くしてね」

「はいはい」


 弟は呆れたように、でもやや急いで服を着ることにした。別にこの手のアクシデントは初めてでない。洗面所のドアには鍵がないので、頻繁でないにしても起こり得るのだ。

 特に昨夜、睡眠が不足していたと思われる詩歌には。

 ただ。服を着込みながら、ふと記憶を呼び覚ました宏輝は、姉の風呂に遭遇したことはない、と思い至った。


 以降、七五三野家はいつも通りの朝を迎えた。

 思春期の男女でもあるまい。騒ぎ立てるほどのことはないのだ。

 風呂から出た詩歌は、真っ直ぐにリビングへ入ってくる。それからテーブルに座った。朝食を待っているようだ。


「はい、どうぞ」


 すると、やはり何事もなかったかのように、宏輝は言い、皿を並べていく。

 その日はロールパンとハムポテトサラダ、ヨーグルトといったラインナップだった。

 詩歌は昨日と同じく、デザートスプーンをまず手に取り、ヨーグルトを引き寄せた。そして、テーブルをぐるりと見回して、ジャム? と言った。昨日はなかった、小振りな瓶詰を持った。


「ブルーベリージャムだよ」

「どこの?」


 詩歌は特にラベルもパッケージもない瓶詰のあちこちを、繁々と見つめる。見たところ、アヲハタでない。海外のサンダルフォーとかでもなさそうだ。


「たしか栃木の。昨日作ってみたんだ。口に合うか分からないけど」


 蓋を開けて用心深く臭いを嗅ぐ詩歌に、宏輝は肩を竦めて答える。そんなに心配しなくても、劇物なんて入れたりしないと抗議しているようだった。その返事を聞くと、詩歌はつまらなそうに、ふうん、とだけ呟く。

 それからすぐにスプーンを持ち直し、ジャムを掬い上げ、ぱくりと口に運んだ。ジャムは普段はヨーグルトに添えて食べるのだろうが、最初の一口は、どこか毒味のような性質を持っているようだ。

 ややしばらく。詩歌は顔色ひとつ変えずにもぐもぐと口を動かしていた。表情は普段通り、眠そうなものである。ただ風呂をでたばかりが由来しているのか、頬はやや紅を帯び、上気しているように見えた。


「宏輝」

「なに、姉さん?」

「このジャムはいつまで食べられるの?」

「確か九月頃までは収穫されているはずだから、姉さんが美味しい、、、、と声に出して言ってくれるなら、また作るよ」


 宏輝は得意気に、殊更美味しい、、、、という部分を強調して答える。とはいえ前述のように訊いてくるということは、味の評価に対して、改めて言質を取ることもなかった。

 詩歌はほんの一瞬だけ眉を跳ね上げさせると、再度スプーンをジャムの瓶に突き立てた。そしてたっぷりとジャムを乗せて、また口に入れる。それからまたすぐにスプーンを瓶に突き立てる。

 日本人にとっては、『唾をつける』という行為である。決して褒められたものではない。ほとんど世界共通で、マナー違反だ。ただ詩歌のその行為は、明確に宏輝の作ったジャムを独り占めし、美味である、と代弁しているに相違なかった。

 結局、小さな瓶詰の三分の一ほどをそのまま食べてしまった。最後は宏輝に嗜められて、渋々、ヨーグルトだけ食べて、詩歌の朝餉は終わった。今朝もいつもと変わらず、コーヒーが運ばれてきた。

 ただしそれは、何やら昨日とはやや気配が違うもののようだ。

 立ち昇る香りと湯気は、比べるべくもなく力強い。同じブルーマウンテンのブラックであるが、コーヒー自体の持つ甘い香りが、昨日よりも遥かに鮮明に、詩歌の鼻腔を刺している。また、詩歌がカップを持ったとき。その手にはじんわりと、取っ手からの熱を感じた。

 それから一口を恐る恐る、啜って飲んで「熱い」と詩歌は苦言を呈した。半眼の眠気顔も、そのときは滅多に見られぬしかめ面だ。

 それもそのはず。『温い』という、おそらくはコーヒーを淹れるものにとり最低の評価を受けた弟は、汚名返上とばかりに熱いコーヒーを仕立てた。

 姉の様子を見ながら、沸かしたばかりの湯を使った。淹れる直前までマグカップは熱湯に沈められ、少しの熱もコーヒーから逃がすまいとしていた。

 そんな有り様だから、先程のジャムの余韻も忘れるくらいには、また詩歌の舌先を著しく痺れさせるには、充分な熱いコーヒーとなっていた。


「昨日は温い、今日は熱い。わがまま過ぎじゃない?」


 肩を竦めて苦言を呈する弟に対し、極端過ぎる、と姉は独語した。


 それから暫く、詩歌はテレビで朝のニュースを眺めて過ごした。台所仕事も終わり、大きめの肩掛けバッグを持ってきた宏輝も、残り物の朝食を食べつつ、同じ番組を見ていた。


「じゃあ、行ってきます」


 宏輝は短く告げると立ち上り、部屋を出る。二杯目の熱いコーヒーを啜りつつ、詩歌は左手をひらひらと振って応えた。視線は彼の方を顧みず、ずっと、テレビの画面を向いていた。


「そういえば、母さん、今日は帰ってくるって」

「ふうん」

「姉さんも、寄り道しないように。晩御飯は、みんなで食べよう」


 玄関横の和室から出てきて、思い出したように、再び顔を出した宏輝は伝える。

 対してほとんど興味がないように、詩歌はまた左手を振って、合意を示した。

 そんな態度に諦念すら感じたのか、弟は溜め息と共に外出していった。

 後には、テレビの芸能ニュースと、詩歌のコーヒーを啜る音だけが残された。

 その日、宏輝は朝から授業があった。昨日の詩歌ほどではないが、夕暮れ時までは、授業尽くしである。

 彼女ら姉弟きょうだいは、モラトリアムの最終学府である大学生活を満喫しようとしてか、上手いこと講義を厳選し、調整して、週に一度は平日の休みを得た。ただ二人して同じようなことを考えたはずなのに、休日が別々であるのは、彼女らの仲を示しているものなのか?


 午前十時の表示をテレビの画面で認めたあと、詩歌も重々しく腰を上げた。大学は休みなものの、どうやら外出の用事があるらしい。

 リュックサックではなく、小振りなショルダーバッグを手に取り、今日もやはり和室に向かった。


 奇妙な習慣といえばそうなのだろうか。

 仏壇でも神棚でも十字架でもない位牌に臨む詩歌や宏輝の姿は、およそ同年代の若者にはなかなか見られぬものでないか。

 ただ特定な、宗教的な要素がほとんど排されている様子は、もし彼女らの友人知人が来訪したとして、容易に受け入れられるものだろうか。

 その日も詩歌は、一輝かずきの位牌に向かい合う。ものの数秒。それで終わり。

 おそらくは無宗教主義の七五三野家にとって、拝むとか、祈るとかいう儀式は存在しなかった。

 何を想い、何を願っているかは判然としない。ただそれにしても、毎日毎朝の習性めいた姉弟の所作は、彼女ら同年代の男女と比して、大変に信心深げなものだった。

 現代日本人の若輩世代のうち、かような習慣を持つ者のなんと少ないことか。

 そのことを顧みれば、則ち、七五三野姉弟にとって一輝がどんな存在であったか、容易に想像できるであろう。


 詩歌は席を立つ。大切な朝の時間は終わったのだ。今日も動き出さねばならぬ。

 左手にした腕時計にちらりと視線を移す。10:03を示していた。

 腕時計は何日か前から和室に置かれたままでいた。詩歌は一輝と向き合う前に、それを着けていた。

 時間を確認してからすぐに、詩歌は身を翻す。どうやら出発には丁度良い時間らしい。

 無人となる七五三野家には、寂しげな雰囲気が満ちていた。

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