五月十五日④


 五月十五日の授業は、朝から晩までみっちりと続いた。最後、詩歌しいかが校舎を出て帰路に就いたのは、陽が沈み始めて暫く経ってからだった。まだ西方の空には、太陽の面影がやや垣間見えるものの、周りはほとんど夜の気配になっていた。

 詩歌は独り、大学の坂道を下る。高野たかのマナは一緒でない。数少ない友人のひとりは、その日の授業が午前中で終わりだったので、先に帰ってしまった。正確には、サークルに顔を出してから、片道一時間半を掛けて、神奈川の家に帰ったのだ。詩歌との別れ際には「待っていようか?」と訊いてみたものの、固辞されたため、苦笑と共に去ったのである。

 初夏を控えてはいるが、夜はまだ冷える。その日は午後を過ぎてから風が強く吹き込んできて、帰りを急ぐ人々の身体を打った。肉付きの少ない詩歌は、身に纏っているのは、天然の防寒具を除くとカーディガンと軽装だ。肌寒さは当然感じているだろう。

 一際強い夜風に当てられて、形の良い右眉が、今日何度目かの小さい痙攣を見せた。家まで十五分と、他の生徒に比べ随分優遇されているとはいえ、それでも、ある程度の不快感からは逃れられなかった。

 ふと、彼女の視線は路肩の電柱に向けられた。微かに何者かの気配が感じられたからだ。そこには小さな猫がいた。一匹である。仔猫と成猫の間くらい、としか、別段愛猫家とはいえない詩歌には判断できないだろう。体毛は白にややぶち、、が散らばったような模様をしていた。

 そいつが特に恐れるでもなく、実に呑気に、詩歌を見上げている。

 すぐに視線は交錯した。野良猫は家で飼うそれと違い、警戒心が強い。近寄ればすぐに逃げ、隠れてしまうものだ。ただそいつは、次第に歩み寄る人間に怯えることなく、灯り始めた電柱の光の下で座り込んでいた。

 詩歌は先述のように、猫が好き、というわけではない。また特に犬派であるということもなかった。ただ年齢相応には、可愛らしい生物が好きなのか、ゆっくりとそいつに近付いていく。相変わらず猫は身動きひとつせず、じっと、目前の人間の顔を見上げるだけだった。


「こんばんは」


 ほとんどすぐ前まで来て、詩歌は話し掛けた。手を伸ばせば届く距離だ。

 詩歌はそこまで行って、膝を抱えてしゃがみ込み、小さな相手の目線の高さに合わせる。それから夜の挨拶をする。当然返事はない。猫は不思議そうに、詩歌を見るだけだ。

 今一度、次は「お腹空いてるの?」と訊く。すると今度こそ、猫はにゃあ、と鳴いた。まさか会話が通ずるはずもあるまい。また通じていたとして、ばつが悪いことに、詩歌は食事の類いを持っていなかった。

 彼女は朝からの眠そうな表情のままに、相手の許可もなく、小さな身体を撫でた。そっと優しく、ひとつ、ふたつ。

 そこで猫は、詩歌がいつまで経っても食事を与えてくれないことを不満に思ったのだろう。急に右前足に力を込めると、自分に触れる手をしたたかに打ち、振り切った。

 小さな体躯の数少ない武器である爪が出ていた。なので、詩歌の右手には少しばかりの引っ掻き傷が出来て、やはり僅かながら出血した。

 しかし詩歌は何も言わなかった。驚きもせず、悲しみもせず、顔色ひとつ変えずにいる。視線も、暴虐非道な風で立ち去る小さい姿から離さなかった。

 詩歌はやがて、猫の姿が民家の塀の間に見えなくなると、ひとつ深い息を吐いて立ち上がる。そしてようやく、自分の手に若干の痛みがあるのを認めた。左手で怪我の場所をふたつだけ撫でる。それから何事もなかったかのように、再び自宅へ向けて歩き出した。

 ふと途中で振り返る。そして、もう見えない後ろ姿に向かって「またね」と小さく呟いた。

 夜風は徐々に強さを増して、耳障りな音を周囲に撒き散らしている。そんな中で、やや遠いところから、にゃあ、という声が聞かれた。


 詩歌が自宅に辿り着いたとき、時刻は十九時を回っていた。玄関の扉を開けると、暖かい柔らかな空気が迎え入れる。

 また夕餉の香りが、ほとんど同時に鼻腔をくすぐる。カレーだ。

 夕食のメニューを察した瞬間、詩歌の胃袋は小さく悲鳴を漏らした。彼女は食に対して執着するきらい、、、がある。普段詩歌を良く知らないひとたちにとって、その感情の起伏を読み取るのは難しい。眠そうに半開きの眼と、低い鼻と薄い唇。顔面中の筋肉が退化したのではないかと疑われるほどに、ほとんどいつも能面を保っている。だから、詩歌と食事を共にした数少ない目撃者からすると、そのギャップは筆舌に尽くしがたいものがあった。


「おかえり」


 洗面所で手を洗い、うがいをしてからリビングに入ると、詩歌を出迎える声が聞かれた。宏輝こうきである。彼は姉の存在を認めているものの、視線はそちらに向けない。目下鍋をぐるぐると掻き回す作業に、神経を割いているようだった。

 詩歌はその姿に、特に「ただいま」もなく、早々に夕食の席についてしまった。彼女が座る所定の位置は、窓を背にした一番台所側である。そこでぼう、と夕食が配膳されてくるのを待っている。

 表情は相変わらずだったが、その腹部から聞かれる悲鳴は、ややボリュームを上げていた。カレーは、詩歌の好物であるらしかった。


「お待たせ」


 さっさと席につき、手伝うこともしない姉の姿を見て、苦笑しながら宏輝は言う。両手に慎重に持たれた大皿が配膳されて、ようやくディナーの始まりとなった。

 弟の作ったカレーは、大きめにカットされた具材がごろごろ入ったものである。口の小さい詩歌には、ひとつ口に含んだだけで一杯になりそうな代物だ。そしてそれは、七五三野家においては、充分に手の込んだメニューだった。特製のビーフカレーである。

 いただきます、もなく食指は動かされた。大振りの人参が、早速詩歌の口に入る。出来たばかりの熱々だ。それを息で冷ますでもなく放り込んだのだから、普段の無表情が、突然しかつめらしい顔をしたとして不思議はない。

 宏輝は笑いながら、カレーの横に牛乳の入ったコップを置いた。


 何事もなく七五三野家の夕食は進んだ。食卓につくのは姉弟だけだった。母の姿はない。

 どうやら彼らにとって、無音と無声とが、食時のマナーらしい。詩歌の口は休みなく動いているが、勿論それは宏輝への賛辞のためではない。宏輝も宏輝で、姉の向かい側に座っているが、特に話し掛けることはしなかった。彼らのいる空間には、食器の音と、僅かに聞こえるむ音とが全てだった。

 ――宏輝が椅子に座ったときと、詩歌がブロッコリーと可愛らしくカットされたチーズを口に運んだとき、ほんの刹那だけ、詩歌に表情の変化があった。しかしそれは、本当に一瞬だったので、どういう感情によるものかは判然としなかった。


 詩歌は食後にもう一杯牛乳を飲んで、ソファーに腰掛け、テレビ番組を観る。彼女の行動の常である。

 弟はソファーの前のテーブルに、コーヒーを供した。それは朝より幾分か改善されていたようだが、ぬるい、との苦言を返上するには至らなかった。

 ともすれば大変に我が儘な姉の言動に対し、弟はただ苦い笑い声で返答する。詩歌はその声を聞く度に、未だ台所に立つ姿を見遣る。そしてひとつも口に発することなく、どこかつまらなそうに、面白くもないバラエティ番組に視線を戻すのだった。


 こうして彼らの一日は過ぎていく。

 夜の十時を回って、観たかったテレビ番組も終わったのか、詩歌は席を立った。


「その手、どうしたの?」


 リビングを出る直前、詩歌はそんな声に歩を止めた。彼女自身、特に痛くも痒くもなかったが、先ほど猫と戯れた右手は、やや赤く腫れていた。出血は止まっている。そもそもだらだらと血が垂れてくるような深い傷でもない。ただ野良猫の足爪は、雑菌の温床らしい。少しの傷痕でも腫れてくるようだった。


「別に」


 詩歌は左手で患部を擦ると、それ以上は言わずに、改めてリビングを後にした。背後で何やら怪訝そうな視線があったが、やはり気にしない風だった。

 二階の寝室へはすぐに向かわなかった。詩歌は和室のひとつ隣に位置する部屋に入っていく。そこは他の部屋よりも狭く、灯りを点けても、何故かやや暗いような部屋だった。

 六畳ほどの広さの中には、壁一面に本棚が並んでいる。見ると棚にはほとんど隙間はない。びっしりと、学術書らしい分厚い本が納められていた。また部屋には小さめの窓がひとつあり、そのすぐ下に机が設置してある。そこは控え目ながら、七五三野家の書斎といった風情だった。

 詩歌はひとつ大きく呼吸をすると、机に向かった。そして左手で窓を開け、右手で卓上ライトを灯す。そのまま左手側の、一番近い棚から一冊を取り出した。

 それは製本から今に至るまで、相当な時間を経たのだろう。本来付いているはずのカバーは取れてなくなり、剥き出しの状態である。しかもそのまま使い込まれたのか、表紙も背表紙も色褪せ磨り減って、題名すら判然としない有様だった。

 詩歌はそんな本を持ち出し、机の上に適当に広げた。栞はない。特に折り目とか癖もない。二一六頁という、何やら奇妙な数字と数式とで構成された頁が見開かれた。詩歌は、まるで何の気なしに広げた部分を、本当に読みたかったかのように、食い入るように読み始めた。


「――」


 不意に詩歌は顔を上げた。読書を始めてから、まだ数分と経っていない。一頁も読み進められてはいない。

 彼女の視線は、今度は机の抽斗ひきだしに向かう。そこを開けて覗いてみると、中には煙草が一箱と、ライターと、灰皿が入っていた。


「ふう――――」


 少しの躊躇いもなくそれら一式を取り出して、慣れた手付きで『HOPE』と書かれた煙草に火を点ける。そして深呼吸をひとつ。齢二〇を過ぎ、法律として何ら問題はない。ただ彼女のその仕草は、まるで何年も前から繰り返し行われているように、滑らかで淀みがなかった。事実それは、数年前から続く七五三野詩歌の悪癖である。

 このご時世の日本という国で、未成年が喫煙するのは褒められたものではない。見付かれば法律に反する。それは喫煙する本人の罪となるし、販売者すら罪を問われる。見て見ぬ振りの出来ない事柄だった。

 ただ今となっては、詩歌が二〇歳を過ぎてからは、誰も彼女の罪を立証できない。仮に自白をしようとして、検分のしようもないのだ。だから周囲の良識ある家族や友人は、詩歌の良心にのみ、謝罪と反省を要求することができる――。

 いや、果たして、彼女を取り巻く家族や友人は、本当に良識人なのか。

 ここに、仮に第三者がいて事情を訊いたとして、そういう疑問が湧くのも無理はない。ただその日においては、証人は弟の宏輝だけである。母や亡父、数少ない友人たちに、良心の所在を問うのは、あまりにも栓ないことだ。


 やがて詩歌は眠りに就いた。自室に戻らず、着替えもせず、机に伏して寝てしまった。朝から夜まで授業を受けていた身体は、よほど休憩を欲していたのであろう。

 不意に部屋の灯りが消された。部屋に入ってきたのは宏輝だった。彼は行儀悪く机に向かったまま眠る後ろ姿に歩み寄り、毛布を掛けてやる。それから灰皿を見て、苦笑いを浮かべた。

 実は宏輝は、姉の悪癖を理解している。にも関わらず、おおぴらに注意や讒言を呈することはなかった。

 何故か? それは互いに、不干渉と無関心の態度を貫いた結果だろうか。もしくは、弟も何かしらの共犯であり、後ろめたいものがあるのか。はたまた――。

 彼らの事情を知らぬ人々は、おそらくそうやって想像と妄想とを働かせる。そしてきっと、ありもしない荒唐無稽な結論を導き出すのだろう。それは姉弟が無言を決め込むうちは、決して避けることができないことだった。

 宏輝はそっと灰皿を取り上げる。彼は使用済みの灰皿を見つける度に吸い殻を捨てて、綺麗に洗っているらしかった。

 そこでふと、詩歌の右手が視界に入る。いつもは色白で、細く薄く、傷もシミもない。ただ今夜だけは、些かの腫れがある。

 宏輝は灰皿を持ったときの苦笑いを、そのまま顔に貼り付けて、部屋を後にした。残されたのは、常日頃は無表情のくせに、寝顔だけはとんと、、、幸せそうな、詩歌だけであった。

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