五月十五日③


 その日の二時限目は、二人は別々の講義だった。詩歌しいかとマナとはB棟の出入口で、一時の別れの挨拶と、今日のランチの約束とを交わす。マナは手製の弁当を持参していたが、詩歌は手ぶらだった。


「今日は、あのひとたち、、、、、はいいの?」


 マナはやや小さく訊いた。見ると、眉根をやや険しくし、詩歌を見上げている。


宏輝こうきも、他の子も今日は休み。わたしだけ」


 だから心配はない、とかぶりを振った。人付き合いの良さそうなマナはともかく、詩歌と昼食を相伴する者があるとは――彼女をよく知らぬひとがいれば、そういぶかしんだに違いない。また人懐こいマナをしても、聞き方によれば、あのひとたち、、、、、を避けているような口振りは、第三者に不思議な胸中の靄々を与えるものだった。あのひとたち、、、、、と代名詞付けられた存在は、どうやら万人に受ける程度ではないらしい。


「じゃあ、ラウンジの食堂で待ってるね」


 ただ、マナはすぐに元の笑顔を戻して言った。それから少しばかり大袈裟に手を振って、次の教室へと去っていった。

 友人を見送ると、詩歌はまたB棟に入っていく。わざわざ外まで出てきたものの、彼女の次の講義は同棟の別の教室だった。

 階段を二つほど昇る。先程の大講堂と違い、四〇人ほどが入る小さな教室、そこの窓際の、一番後ろの席に座る。

 時間がやや早いのか、他の生徒が来るのが遅いのか。そこには、未だ四名しか姿がない。彼らは互いに知り合いなのか、教室のほとんど中央に固まって座っていた。

 詩歌はそのグループに別段興味もなく、窓の外を見遣った。

 景色は春から初夏へと移ろいでいる。つい最近生まれたであろうくちばしの黄色い雀たちが、どうやら親鳥らしい後をついて、はらはらと飛んでいる。桜はまるで遠い昔になくなってしまったように姿を失い、今は青々とした新緑を持っていた。

 それらを夏程の刺々しさを持っていない陽光が、優しく見守るように天から注ぐ。風はない。都内とは名ばかり。周囲に山野を持つ学舎には、強風はなく、時折そよぐ程度に吹くだけだ。

 眼下を見れば、多くの学生が、長い坂道を上ってくるのが窺える。皆朝早い一時限目の授業を避け、二時限目から登校する魂胆なのだ。

 詩歌はそれらをぼう、と見下ろしながら教科書とノートを広げる。講義の名前は『応用物理学』といった。

 やがて白髪と白髭の老教授がやってきた。

 生徒は詩歌を含めた五人だけである。どうやら時間が早いわけでも、他が来るのが遅いわけでもなく、単純に、人気のない講義のようだった。



彼ら、、は孤独でなかった。彼ら、、は短い手と手を互いに繋ぎ合わせて、我々の前に現れる。現象ということである。とはいえ我々からは、彼ら、、の姿を精確に捉えるのは酷くむつかしい。よくよく目を凝らして見ても、今のところは、彼ら、、の細腕はおろか、その姿形すら、見ることはできない。これは我々にとっても、彼ら、、にとっても、おそらくは大きな障害であるはずだった。ただ、今一度、孤独でないと声高らかに言わねばならぬ。彼ら、、は、他の彼ら、、とは互いに認知しているはずであるし、何より、彼ら、、は、我々に対して足跡を残している――それを我々は、ようやく、ここ最近に至って、観測し得る手前まで来たのである』



 七五三野詩歌がふと意識を取り戻したとき、酷く退屈な授業は終わっていた。後には、彼女ひとりだけが残されていた。


 遅い、と文句を垂れる友人を軽く無視する形で、詩歌は混み合うラウンジの一角でうどんを啜っている。ラウンジとは、その大学の巨大な休憩スペースである。三〇〇から五〇〇人を収容できる広さに、長机と椅子が整然と並ぶ。フードコートが併設され、軽食用の売店と、ハンバーガーショップと、うどんチェーンが店を構える。外にはすぐ横にファミリーマートがあった。

 また授業で使用するものとは別に、レクリエーション用のグラウンドも設えてあった。サッカーグラウンド一つに、テニスコートを二つ繋げたような広さのそこは、昼休みと授業の後には、暇な連中が球技などで身体を動かしていた。

 とはいえ、詩歌にとってその光景は眼中にない。正面に座る友人の姿も意識の外にあるようだった。彼女にとって重要なのは、今現在においては、目下のうどんだけであるらしい。


「――そんなに美味しいものかね、それ」


 高野マナは呆れ顔で詩歌を見る。自身は既に弁当を食べ終えて、手持ち無沙汰だった。両手に顎を乗せて、友人の食事風景を見守っている。

 詩歌がマナと二人で昼食を摂るときは、大抵うどんだった。それも、『釜玉うどん三〇〇円』なるメニューに限定されていた。

 茹でたてのうどんの水気をよく切ったあと、器に入れ、たくさんの天かすと浅葱に玉子をひとつ落とし、甘めの出汁醤油をひと回しかけたもの。

 酷く簡単なメニューを、詩歌は大層愛していた。何故かは分からない。無論、美味であるからに他ならないのであろうが、友人にとってみれば、毎回同じメニューに拘るというのは、些か不思議に思われた。


ふぁしだしが、ほぉいしいおいしいの」


 返答は毎度同じである。小さな口に一杯頬張ったまま喋るのも、やはりいつも通りだった。

 食べ方の作法も、


『うどん屋の近くに置かれている、追加の、特別らしい出汁醤油を、卵黄部分に数滴と、全体に軽く一周回しかける。既に味は付いているものの、さらに加えるのがポイントらしい。あとは手早く、全ての食材を混ぜ合わせてから、冷める前に一気に頂く』


 マナは直接、詩歌に教授賜ったわけではない。ただ何度も見ていると、マナとして自然と作法めいた仕草を覚えてしまう道理だった。ちなみに詩歌がいないとき、秘かに試してみたところ、大して、目の前の友人ほどは、感動する味わいでなかった。


「出汁、なんて分からないし。みっともないから口に入れたまま喋らないで――ああ、ごめん、食べているときに話し掛けて」


 呆れ声でつい声掛すると、詩歌はなおも答えようとする。マナは今度は苦笑を含みながら謝し、食べ終わるのを待つことにした。

 時間にして五分ほど。最後の一本をつるりとのどに流し込む。それからセルフサービスのミネラルウォーターを一口飲み、彼女の昼食は終了した。


「スズメバチの食事を思い出すわ。詩歌を見ていると」

「スズメバチ?」

「そう、スズメバチ。あいつらエサを食べるとき、夢中で集中して食べるのよ。普段つついたり、悪戯したらすぐに怒るくせに、食事のときは余程でないと怒らないのよ。されるがまま」


 調子乗ってると凄く怒るんだけど、とマナは付け加える。詩歌は首を傾げながら「スズメバチ?」と今一度口にする。よくよく考えてみなくとも、同世代の女性をスズメバチ呼ばわりするのは、大変に失礼だった。


「ごめんごめん、えっと、言い換えると……単純一途てやつ?」

「単純一途――」


 マナは咄嗟に言ったものの、もし第三者が聞いていたとしたら、相変わらず失礼な物言いだと叱咤したであろう。もっと適当な言葉はなかったのか。

 詩歌は一瞬だけ右の眉をひくつかせてから、目を閉じ、人差し指を顎に当て何かを考え込んだ。が、すぐに刮目すると、どこか怒気を含んだような低い声色で「そんなことない」と言った。

 マナはその様子にぎょっとなり、慌てて謝罪し、取り繕って、ご機嫌を得ようとした。それまでの話題を急に路線変更して、バッグからファッション雑誌を取り出す。そして掲載の写真を指差しながら、これが可愛いとか、それが欲しいとか、これが似合いそうだなど、早口で話し出した。

 詩歌は暫くそんな友人の様をじっと見つめていたが、本人もどこか反省すべき点があったのだろう。すぐに視線をマナと同じ写真に移して相槌を打った。彼女らは、周囲の昼休みの学生と同じく、次の授業への僅かな時間を楽しむことにしたのだった。


 ところでなぜ詩歌は、些細な一言で気分を害したのか。迂闊な言葉が気に障ったのか? そしてそれは、存外に繊細な神経を、大きく揺さぶるものだったのだろうか。

 事実友人が少ないのは、人見知りであったり、口数が少なかったり、喜怒哀楽の幅が少ない、というのはある。ただそれらをして更に大きく上回る欠点は、七五三野詩歌の思考回路にあるやもしれぬ。何かの事柄を咀嚼したとき、稀に、曲解して消化され、酷く彼女の神経を刺激することがあった。ともすると自意識の過剰と呼ばれる精神疾患は、果たして、彼女の周囲を取り巻く環境に、どう影響を及ぼしただろう。その結果与えられた状況を前に、詩歌は何を思うのか。それは本人にしか分かり得ぬ。分かり得ぬが、ある程度のささやかな孤独感に、不満はありはしないだろうか。

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