五月十五日②


 七五三野しめの詩歌しいかの外出先は、何のことはない、彼女の属する大学だった。

 そこは新宿から電車を乗り継いで一時間ほど。都内としては、狭くとも驚くほど緑溢れる土地である。限られた敷地の中に自然と校舎とを共存させたため、建物は狭々しく並ぶ。そこに足を踏み入れるひとたちは、どの方向からでも、数十段という階段か、長い上り坂を踏破しなくてはならない。

 格としては決して一流大学ではないが三流というでもない。特別有名ではないが、誰もが一度は聞いたことはあるような――つまりは平凡を絵に描いたようなものだった。

 そこの理学部数学科が、七五三野詩歌の学び舎である。

 ほとんど多くの学生は、電車に揺られ、バスを乗り継いで通学するか。近所にある安くてボロのアパートを借りて通学するか。どちらかの二択を迫られる。詩歌にとって、そこが実家から徒歩十五分の好立地にあるのは、大変に幸いなことだった。


「おーい、しーいかー」


 不意に、詩歌のやや遠い背後から、そんな声が聞かれた。女性のものである。学び舎に続く、緩やかだが長い坂道を歩いていた詩歌は、足を止めて、ちらりと顔だけで後を窺う。そこには、十数メートルほどの向こうから、こちらに走り寄る姿があった。


「おはよう、マナ」


 やがて追いついてきた友人に、そう声を掛ける。対するマナと呼ばれた方は、坂を走って上って来たため、肩で息をしながら「おはよう」と相槌した。


 高野たかのマナは、詩歌の数少ない友人のひとりだった。今年で十九歳になった。

 明朗闊達の言葉通りの性格をしていて、誰に対しても分け隔てなく振る舞う。背は詩歌より頭ひとつ分以上低い。髪は茶に染めてあり、短めに切り揃えられて、どこか年若い男性的な雰囲気がある。薄めだがしっかりと化粧もしている。特別に美麗な顔貌かおかたちというわけでないが、内外共に、詩歌と正反対な性質だった。


「今日、宏輝こうきくんは? 一緒じゃないの?」


 マナは呼吸を落ち着かせてから、そんなことを口走った。


「――今日は休みだって。あと、一緒に来たことなんて、ない」

「そうだっけ? まあ良いけど。明日は学校来るの?」

「今日休みだったら、明日は授業あるはず。わたしは休みだけど」

「残念ながら、詩歌の休みは知ったことではありませーん」


 高野マナは、宏輝に明らかな好意を寄せていた。そしてそれを隠すことはしない。宏輝に対して、思いの丈を直情的にぶつけるのだ。

 ただ、未だに電話番号もメールアドレスも知らない。何故かいつも、そういう話になる前にはぐらかされ、煙に巻かれていた。同じ大学で同じ学年でありながら、学部の違いで、会うことはほとんどない。既にお互いが知人友人以上の仲であれば、ある程度同じ授業を選んだり、食事なんかも出来るだろう。ただ、それは叶わぬ。詩歌と正反対な性質なのに一緒につるんでいるのは、マナの打算の表れであった。


「――今日はこれから、B棟の三番講堂で、数Ⅴの授業」

「詩歌の出る授業も、知ったことじゃないんだけど」


 二人は並んで坂道を上る。一見すると仲の良い、けれど凸凹な友人関係だ。彼女らの片方の、時折見せる右眉の小刻みな震えは、気付かれているのだろうか。


「マナ、数Ⅴはわたしと一緒だよ」

「そうだっけ?」

「そうだよ」


 やがて坂道は終着した。学徒三〇〇〇人を有する学舎に二人は辿り着く。

 東京都内ではあるものの、敷地の中には大小の木々が立ち並ぶ。どこからか鳥のさえずる声も聴こえる。辛抱強く木陰を探せば、栗鼠などの小動物と遭うこともできた。

 建ち並ぶ十六の校舎を、南北で分別するように、人工の小川が流れている。それを中心として東側は文系の、西側は理系の授業で主に使われている。


 二人は二年生になる前に出会った。年が明け、短めの冬休みが終わった後である。マナはそれ以前に、宏輝とは邂逅していた。

 宏輝とは特に会話をしたこともなければ、授業が一緒だったりしたわけでもない。偶然、振り向いた視線の先にその姿があった。ほとんど一目惚れになった。

 マナは特別に美人であるとか、綺麗であるとか、顔貌に対しての形容詞は世辞にもない。ただ醜いというわけではなかったし、何より快活で明朗な性格が、高校時代までは良くモテていた。

 だから宏輝にもほとんど気負いせず声を掛けて、いくらか会話し、共に食事をして、学校帰りに一緒に遊んでいく。

 そういう、彼女に取り完璧な計画は、気安く話し掛けた直後の、怯えたような表情に脆くも崩れ落ちた。なぜかそんなだったかは判らぬ。ただ、およそ万能と思われたマナの対人法は、宏輝に通用しなかった。

 結局そのまま友好的な関係を築くことなく、時折見掛ける背中に溜め息をく。一緒の学部の友人やサークル連中に愚痴を溢しては、苦笑と励ましの言葉とを受けた。

 そうこうしているうちに春休みの直前。朝、一時限目の授業が始まる前に、登校の坂道を歩いていると――宏輝の姿を認めた。次いで、隣を行く詩歌の姿も目に入った。

 そうか、彼はああいうのが好みなのか。とは、マナの偽りならぬ本心だった。後を進むマナから見えるのは二人の背中だけ。当時、特に会話をしている風でもなかったが、彼らの距離感というか、無言のうちの雰囲気が、何やら他者を寄せ付けぬ親しい関係を示しているように感じられた。実際に正面に回り込んでよくよく顔を見比べてみれば、二人は少なくとも後姿だけは全く似ることのなかった姉弟というのが、すぐに知れたであろう。

 ただその時のマナは、得体の知れない胸のつっかえ、、、、を感じ、同時に枷を掛けられたように、坂を上る足が重くなっていた。十八歳の少女の一目惚れは、成就しなかった。

 溜め息を吐きながら授業へ向かった。正直、向学心も上昇思考も、此度の一件で一時粉砕された。授業どころではない。

 それでも教室に向かったのは、せめてもの気晴らしを求める故だった。丁度その日は、未だ他の友人たちも来ている時間でなかった。

 目の前の二人は、小川のところで別れたようだ。彼氏は東側の棟に、彼女は西側に向かった。マナは不運にも、授業は西側の棟であった。

 何となく後ろめたい居心地で、見つからぬように――見つかったところで、彼女らにこの時面識はなかったのだが――、こそこそと歩いた。

 やや小さめの研究棟の群を抜け、大学の中央に位置する大通りを道なりに進む。すると正面に一際大きな校舎がある。そこの一階の大講堂が、その日の一時限目の授業場所だった。彼女ら二人にとって。

 偶然、一緒の授業。マナはその時に意を決して、声を掛けた。それ以来、詩歌とマナは友人となった。


「やっぱり、二人で一緒に学校来てたよね、最初は」


 初めて詩歌と会った日のことを思い出してか、マナは授業の最中に関わらず口にした。対する詩歌は、朝から熱弁を奮う講師からマナへ、やや非難めいた視線を移した。一〇〇人ほどが出席している授業だったが、私語の類いはほとんど聞こえない。皆一様に学生らしく、熱弁と教科書とノートとに集中している。


「記憶にございません」


 辛うじて隣に聞こえるくらいの小声で、詩歌は答える。すると「政治家か」と最初に言った本人は苦笑した。

 それからは、黙々と講師の話を聴く。陽が昇るにつれ、適度な暖かさが講堂内に訪れる。故に、ひとり、またひとりと勤勉な生徒たちは睡魔にさらわれた。

 マナも例外に漏れず、ノートの半分ほどを数式と解説とで埋めたところで、意識を手放した。元々この講師の授業は厳しくない。最低限の出席数の確保と、中間・期末の試験がある程度であれば、落第のそしりを受けることはなかった。

 また、正しく数学を深く志す者にとっては、話は面白いし解りやすいと好評である。相反する意識を持つ生徒たちをして、人気の授業と言われていた。

 さて七五三野詩歌は、真面目に講義に耳を傾けていた。女性の講師の話す一言一句を、身振り手振りを、逃さないとするようにと、っと正面を見据えていた。

 ただ、ややおかしい。

 眠りに落ちたマナがもし見ていたら、首を傾げていただろう。真剣に授業に臨んでいるはずの詩歌のノートは、ひとつの文字も数式も記されていなかった。一応、ノートも教科書も、てんで関係ないページであるが、確かに机の上に開かれていた。

 何故か。詩歌を見るものがあるなら、疑問が沸くだろうか。彼女に取りその授業の内容は、書き残すほどもなく簡単なのか。わざわざ記録せずとも全てを記憶しているのか。はたまた、もしや、目を開けたまま寝ているのではあるまいか。

 やがて終業の時間が訪れた。講師は腕時計を最後に見遣ると、講堂の最後尾に声を掛ける。出席票を回収するのだ。それを合図に静寂は破られ、ざわざわとした雰囲気が講堂を支配する。


「……あれ、寝てた?」


 数分前と違う空気を感じ取ってマナは起きた。右頬には、暫く押し当てられていたのか、シャツのボタンの跡が付いていた。


「おはよう」


 起き出した友人の姿を見て言う。表情に非難の色はなく、現在は淡々と、教科書とノートをリュックサックに仕舞い込んでいる。次の授業へ赴く準備をしていた。


「ねえ、あとでノート見せて」

「いやだ」


 マナの嘆願は、短く拒否される。そもそも見せるノートを詩歌は持たないので、拒否以外に返答のしようもない。


「今度教えて」マナは両手を合わせ、拝むようにして、なおも頼み込んだ。

「暇があったら」


 詩歌は言った。その言葉は、暗に勉強を教える暇が訪れないことを示唆している。ただそれに気付かない素直な友人は「恩に着る」「持つべきは友」と笑顔を作ったのだった。

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