五月十五日①
「姉さーん。そろそろ起きて、朝ごはん食べてよー」
そんな、どこか批判めいたニュアンスを持つ声が、一階にある台所から聞かれる。時計は朝の八時を指す。未だ顔を見せない姉に対して、賢明な弟は、目覚まし代わりに声を掛けた。
「――はーい」
やや暫くして、いやに遠くの方から聞こえるような、気の抜けた返事が聞かれた。弟の懸念の通りに、だらしのない姉は、まだ
姉は
朝だけでなく常に眠そうに、瞼は眼の上半分を覆っている。それは初対面のひとがいるなら、目付きの悪さややる気のなさを印象付けるものだろう。鼻は低く、唇は薄い。七五三野詩歌を大雑把に形容して言うならば、『日本人』らしい女性であった。
詩歌は弟に声を掛けられてから、たっぷりと十五分の時間を掛けて、寝床から這い出し、着替えをして、一階に降りてきた。
右手には大きめのリュックサックを提げている。黒に近い茶のジーンズを履き、ピンク地のカッターシャツに、濃紺のカーディガンを羽織っていた。全体的に薄い顔に化粧っ気はなかったが、おそらくは、朝餉が済んですぐに、どこかに出掛けるのであろう装いだった。
テーブルの席についた姉の前に、出来上がったばかりの朝食が並ぶ。弟はよく仕付けられているのか、はたまた姉のことを良く理解しているのか。椅子に座った途端、テーブルに並んだのは出来合いでない。起床から現在までの時間を精確に予想したように、
とはいえ、詩歌はその香ばしく焼き上がったトーストにも、たまたま居合わせたスクランブルエッグにも食指を伸ばさない。いきなりデザートスプーンを手に取って、やや端に陣取るヨーグルトの小皿を引き寄せる。ヨーグルトはグラニュー糖の入らない、プレーンタイプのものだ。詩歌は右手にスプーンを持ちつつ、テーブルをぐるりと見渡し、
「ジャムならもうないよ。昨日に全部食べたじゃない」
という弟の声を受けて、ぴたりと動きを止めた。
この良く気の利く弟は
完全な黒髪でなく染めているのか、元来より色素が薄いのか、やや茶色の頭髪をしている。
目付きは常に眠そうな姉と違い、
宏輝の言葉は、詩歌の右眉をぴくりと震わせた。その反応は極小さく見落とされがちだが、彼女の機嫌が害されたことを知らせるものだった。
次いで、横に立つ弟の姿を見遣る。
「そんな顔をしてもだめ。無いものは無いの。来季まで我慢してね」
宏輝は苦笑した。話題のジャムとは、彼の手造りであるらしい。
「そんなに美味しかったかな?」
独語しながら、宏輝はそそくさと台所へ逃げるように立ち去った。
無いものねだりをしても仕方がない。詩歌がそう思ったかどうかは、その変わらぬ表情からは判然としないが、しようがないという風で、朝食を摂り始めた。
とはいえそれもすぐに終わってしまう。彼女の朝はヨーグルトのみであった。トーストもサラダも、スクランブルエッグも、お気に召すものではなかったらしい。
宏輝はまた苦笑しながら、詩歌の目の前の皿を取り下げていく。てきぱきと動くその様子を、特に感慨もなさそうに、詩歌は
朝食後にはコーヒーが供された。それも七五三野家のほとんどお決りだった。大きめのマグカップに注がれるのは、濃い目のブルーマウンテンである。細く白い湯気を上げながら、コーヒーは詩歌の前に置かれる。砂糖もミルクもない。それは未だ睡魔と戦っているような姉を気遣ったものか。はたまた元々、姉がブラック党なのか。二人の姉弟の距離感を掴みきれない内には、解を導き出せない問である。
「
やがてコーヒーに口を付けた詩歌からは、そんな感想が聞かれた。眠そうな瞳は相変わらずだ。辛辣な評価を受けた宏輝は、途端にしかつめらしい顔をする。
「――淹れ直す?」
言葉の端々に棘を出しながら、姉に問うてみる。姉を見る弟の視線には『文句言うなら自分でやれ』という批難が見え隠れしていた。結局言うことはなかったが。
そんな視線を受ける的は「別にいい」と短く答える。そうして以降はひとつの文句も苦情も言わずに、コーヒーをちびちびと飲んでいた。
朝食を完全に終えた後で、詩歌はごちそうさまも言わずに席を立つ。リュックサックを手に提げて向かったのは風呂場兼洗面所だ。そこで歯を磨き洗顔する。なにもリュックサックを一緒に持っていくことはないが、それに対して詩歌は、特にコメントを発することはなかった。
洗面所を出た詩歌は、そのまま玄関に向かい、外出をする――前に、玄関のすぐ横に位置する部屋に入った。
全体的に近現代を象徴する洋風造りの七五三野家だったが、その一室だけは、古来よりの日本らしい和室だった。そこだけは襖で区切られていて、床はフローリングでなく畳張りである。
部屋に入ると、やや高く昇った陽光が、季節がら優しく差し込んでいる。六畳ほどの広さの部屋には、中央に正方形の卓袱台があり、隅には来客用の座布団が重ねて置かれている。そして奥には、背の低い長方形の机があり、上には黒い木製の置物があった。
七五三野家の家族構成を知るひとなら、すぐに思い浮かぶであろう。
そこには仏教のような仰々しい、けれど大変に有難い戒名はない。また部屋のどこを見渡して探しても、遺影は見当たらず、仏壇はおろか神棚もなく、まして十字架もなかった。
詩歌は和室に入ると、足元にリュックサックを置いて、位牌の前に座す。正座ではなく、胡座をかいて。その姿勢を叱咤し正そうとするものは、この場にはいなかった。
時間にして十秒ほど、未だ眠気を孕んだような二つの瞳は、じっと位牌を見つめていた。
数メートル先では、台所仕事をしているだろう宏輝もいるはずだが、そのときばかりは、音が忍び込んでくることはなかった。また、詩歌以外には、動くものさえなかった。
「いってきます」
ほんの僅かの静寂は、その一言で破られた。詩歌はそう言うと席を立ち、リュックサックを持って、早々に部屋を辞していった。
すぐ後には、靴を履き、玄関の扉を開ける音が続く。再びその部屋には、どこか寂しい静けさが訪れる――と、詩歌が出ていった数拍の後に、『一輝』の元を訪ねるひとがあった。宏輝である。
彼もまた位牌の前に腰を下ろす。姉とは違い、正座だった。だが他は姉と対してやることが変わらず、やはり数秒の間『一輝』の文字辺りを凝視するだけである。目を閉じて黙祷、という風ではない。手を合わせるわけでも、拝むわけでも、経を読むわけでもない。その様は果たして、祈りを捧げているものだろうか?
やがて宏輝も立ち上り、台所へと戻っていった。後には、つい数分ほど前の、ほとんど完全な静寂が、姉弟の代わりに腰を下ろしていた。
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