四月十一日



 村田むらたしゆうは冷たい床に寝ていた。どうやら自分は、いつの間にか変なところで眠ってしまったらしい――それがその時の、彼の認識した最初である。

 次いで、周囲が暗いことから、時間帯が夜であると知れた。窓からは僅かに外灯の光があるが、彼のいる場所全てを照らし出すほどではない。薄暗く、肌寒い。

 村田は痛む身体を、上体だけ起き上がらせる。同じく痛む頭を振ってから、じっと周囲を観察した。

 曇り空である。陽の光の気配はまるでない。天井にはいくつかの細長い蛍光灯が見てとれるが、本来の役割を失ったように、暗闇の中でうつすらとした白さだけを持っている。

 視線の先のあちこちに、椅子やら机やらの脚が見える。一瞬、複数の金属の棒らが何だか判らなかったが、胡乱な意識を少しばかり引き締めれば、そこが大学の教室のひとつだと、比較的簡単に推測できた。

 ただ、ぐるりと周囲を見渡して、いくらか寝起きの思考をめぐらせても、自分がなぜここにいるかはとんと、、、分からぬ。

 確か、昼間は大学で、自身が所属するサークルの勧誘をしていた。遊び目的で立ち上げたサークルで、大っぴらに口外は出来ないが、男女問わず淫蕩を愉しむものだ。新年度が始まり、上京してきた田舎の女子を引っ掛ける。その活動に余念なく、広い学内を東奔西走といった具合で、駆け回っていたはずだ。

 彼が思い出せる限りの最後の記憶は、そんな風だった。たまに仲間内で、学内で酒を飲むことはあった。およそ合法的でないドラッグを嗜むときもあった。しかし記憶の限りでは、それらをその日は摂取していない。何故こんな所で寝そべっているか、という問に対する答は、現状では見出だせない。

 ふと。起き上がろうとした身体に違和感があった。彼は左利きだったから、上半身を起き上がらせるのにも、痛む頭を押さえるのも左手である。しかしどうやら右腕の様子がおかしい。暗くて良く見えない。加えるに右足も変だ。少ない光源を頼りに自分の身体を観察しようとする。やはり、良く分からない。

 立ち上がろうとする。四肢に力を込める。それはほとんどいつもの日常と変わらない、当然の動作だ。でも上手くいかない。身体を持ち上げようとして、バランスが取れなかった。中途半端に力を込めたものだから誤って転げる。鈍い音が、ほとんど無音の空間に響く。

 なにか、変だ――村田はそう感じた。自分の半身が、まるで他人の物であるかのように機能しない。今までと同じに動かせるのは、どうやら身体の左側だけのようだ。彼は考える。半身不随とは、もしかしてこういう症状であるのか?

 段々と、目が暗闇に慣れてきた。

 村田は改めて自分の身体を見る。意識は暗いトンネルを脱け出して、ある程度の正常さを取り戻していたはずである。

 周囲を見渡して、己の身体を観察する。それでまず見られたのは左手だ。違和感はない。次に右側にある、右足、、を見た。

 左足は如何なものか。変わりはない。毎日見る、村田修の左足だ。右足を見る。そこには、冗談のように、右手があった、、、、、

 絶句。次に悲鳴。犬の遠吠えのような声が、大学の教室に響き渡る。彼は、どこか他人事のように――こんな大声を出してしまっては、大変に近所迷惑だろう――、混乱の極みにある思考の隅で思った。ただその懸念は、無人であり、締め切られた大学の一室では杞憂だった。


 およそ一時間後、今度はけたたましいサイレンの音が聞かれた。通報を受けてやってきた救急車が、寝静まる闇夜を切り裂いた。

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