2-12 ナンバーナイン(エマ王女視点)

 数台の馬車が音もなくローマンの街を出た。

 馬車には、女鹿を現す紋章が刻まれている。ローマン共和国を支える大貴族の一つ、グレイジョイ侯爵家の紋章が刻まれた馬車の中を検分する兵士なんていない。


 ――みじめだわ。とっても、惨め。

 エマ・サティ・ローマンは分別のある王女であり、悪戯に騒ぐこともない。


 その醜悪な見た目とは裏腹に、グレイジョイ侯爵の手際の良さは彼女も十分に知っていた。グレイジョイ侯爵が自ら動いたのであれば、それは綿密に計算され、自分が騒ぎ立てた所でどうにかなるものではないことを彼女はよく知っていた。


 エマ・サティローマンの婚約者である、美男子ユリウス・グレイジョイ。

 彼の父親であるグレイジョイ侯爵にはそれだけの力がある。

 ミモザでは争い御法度。不文律のルールを破ってもお咎めを受けないだけの権力をグレイジョイ侯爵は持っているのだ。


「……」


 馬車の中にはエマ王女の他にもう一人、男が同席していた。

 彼はミモザの従業員であり、エマ王女やグレイジョイ侯爵が先ほどまで滞在していた部屋に料理を届けに来た不幸な従業員である。

 エマの対面に座る彼はずっと顔面は蒼白で、歯がガチガチと震えている。見てはいけないものを見て、巻き込まれてしまったと己の不運を呪っているのだろう。

 

 ――こいつは、使えないわね。


 頼りなさそうな男だ。けれど、無理もないのかもしれない。

 彼はグレイジョイ侯爵の部下によって、首にナイフを向けられ、侯爵の命令に従うよう命令されたのだ。そしてミモザを勝手知ったる彼の力添えがあって、エマは誰にも見られることなく、ミモザを出ることが出来た。


『いいか、名前を知る価値もない男。お前は何も見なかった。金をくれてやるから、暫く王女の傍にいてやれ。王女も同国の人間がいれば多少は安心するだろう。グレイジョイの名の恐ろしさを知りたくなければ、言う通りにすることだ』


 彼もまた被害者だ。異国を連れていかれるエマ王女が一人では寂しかろうと、グレイジョイ侯爵に脅されて、彼もまた馬車の中に連れ込まれたのだ。


 ――私の心は、鉄よ。これぐらいの不幸じゃ、揺れないのよ。


 窓は外から布が掛けられ、外の様子も分からない。

 エマの考えでは、街を出て国外へ向かった後は、恐らくリバーペイン国辺りに飛ばされるのだろうと予測していた。


 馬車の窓は目張りがされ、外の様子は見えない。時に石に乗り上げ、エマのお尻が持ち上げられる。馬車は進み続ける。到底、眠ることなんて出来やしない。


 ただ、彼女はじっと耐え忍び続ける。


 ――私の心は、鉄なんだから。最初から、期待なんてしないのよ。


 魔術個性ウィッチクラフトを持たぬ王女として生まれた人生。

 元から幸せになれるなんて夢にも思っていなかったのだ。


「目を閉じろ」


 唐突に、エマの思考は打ち切られた。


「……あなた、喋れたのね……」


 ずっと絶望に沈んでいた対面に座る彼が、喋りかけてきたからだ。


「口を塞いだ方がいい」


「少なくとも、王女に喋りかける態度じゃ――きゃあああああああああ」


 そして、馬車が急停車。エマは座席から腰が浮いて、一瞬、宙に浮いた。


 馬車が横転したのだ。

 そうエマが理解した時には、外から大勢の罵声が飛んで、エマは座席から投げ出された。エマは床に頭を打ち付け、それでも怪我一つしなかったのは、彼女の身体が元来、丈夫じょうぶであったからだろう。


「……何なの!」


 エマを守る親衛隊がきたのか。いや、それはない。早すぎる。


「何が起きたの!?」


 エマ王女は答えを期待していたわけじゃない。

 この馬車の中には、彼女の他にもう一人。絶望に沈む男の従業員がいただけなのだから。けれど、エマの予想に反して返答が返ってきた


「車輪を切断したんだ。仕掛けはしていたからな、後はタイミングだけだった」

 

 驚くべきことに彼はエマとは違い、席に座ったままだった。 


 無表情に、床に転がったエマ王女を不思議そうに見つめている。

 まるで、こうなることが元々分かっていたと言わんばかりの余裕。

 

「……まさか、貴方が何かしたの!?」


 彼に向けて、エマ王女は叫んだ。すると、ただのミモザの従業員であった筈の彼は、エマの問いかけを無視して右手で自らの顎を掴む。


「依頼の仕方が周りくどいんだ。初めから教えてくれたら、もっとスマートにやれたのに。次からはマダム達のように、分かりやすい言葉でお願いする」


 エマは絶句した。

 彼は自らの皮膚を引きちぎったからだ。いや、エマにはそのように見えた。


「きゃ、きゃあああああああ!」


 彼は気でも狂ったのかとエマは半狂乱になりかけたが、千切った皮膚の下から出てきた顔に、さらにエマは驚愕した。呼吸すらも忘れて、エマは彼を見た。

 

「依頼はまだ、終わってない」


 ゴムのように、伸縮する皮の下から現れる顔には見覚えがあった。

 何故なら、彼はここ最近、エマの興味を最も引く人物。子供が吹聴するような噂を信じたエマの召使めしつかいによって、引き合わされた同級生。

 

「そうだろ、鉄のアイロン王女様」」


 ウェストミンスター校の女の子から、白い死神スノーホワイトなんて呼ばれている同級生――イトセ・オルゴットだったからだ。

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