5章閑話

#31_ext 最後の挨拶

「えっ!? キミ、今日が最終出社日だったのかい?」

「はい」


 創平と久利生が不在だった日の夕方。

 土岐のもとへ、かつて一緒に働いたことのある、50代くらいの男が挨拶に赴いていた。


 男は白髪まみれの薄い頭を下げると、


「在職中、土岐さんには本当にお世話になりました。色々と気にかけていただいたにも関わらず、なんのお返しもできなくて」

「そんなことないさ。アタシだって――」


 椅子から立とうとした土岐を、男が片手を挙げて制する。あかぎれと皺だらけのそれを見て、土岐はぐっと口もとを引き締めた。


「戦力外通知をだされた後も、私がこうして会社にいられたのは、土岐さんが口利きしてくれたお陰ですから。でも――」


 男はそう言って、深く、大きく息を吐く。


「もう、心が限界なんです」


 土岐はなにも言わずに、力なくうな垂れた。またか、という侘しさだけが澱となり、小さな躰に淀んでいく。



 先年、この男はグラフィッカのチーフとして、数々のタイトルに参画していた中堅スタッフであった。


 しかし、新しい技術の波について行くことができず、自分の力を発揮できる機会が少しずつ限られてきた結果、会社から戦力外通知を突きつけられたのである。


 行き場を失った彼や、彼と似た境遇のスタッフたちを助力するため、土岐はしばらく社内を奔走し、望む者には転属先や再就職支援を受けられるよう上層部にまで圧力をかけたのは、開発部ではわりと知られた話だった。



「――次にどこへ行くか、決まっているのかい?」


 土岐の言葉に、男ははにかむような笑顔を浮かべる。


「いやぁ、この年齢としになると、流石にどこも渋いもんですな。絵描きはとっくに廃業です」


 こともなげにそう言って、頭を掻いた。


「まぁ、業種に拘らなければ、まだ何とかやっていけると思っとりますので。田舎に帰って暫く休んでから、のんびり次を探してみようかと」

「……ご家族は? 何て?」

「とっくに愛想を尽かされましてね。家から出て行ってしまいましたわ。独り身なんで、気は楽ですけどね」


 楽しげに笑う男を直視できず、土岐は俯き唇を噛む。ぎゅっと握ったスカートが捻れ、深い皺が刻まれていた。


「……すまない、アタシは――」


 ぽつりと呟く土岐の言葉を、


「土岐さん」


 男が穏やかに制止する。


「土岐さん。私はね、貴方がこの会社に居てくれて、本当に良かったって思っとるんです。だって――」


 そう言って、男は心底感謝するように微笑んだ。



「こうして笑顔で別れを告げられるヒトが、私なんかにも遺されているんですから」



 伸ばされた手を、土岐が両手で掴む。男もその手を包むように、両手で握り返した。


「ありがとう、土岐さん。今後のご活躍をお祈りしてますよ」

「もちろんだ、任せてくれ。きっと、きっと――」


 土岐が震える声で、男を正面から直視して言う。


「キミがこの会社で働いていたことを誇れるくらいのヒット作を、必ず創りだしてみせるから」



 男が去って暫くした後、土岐は席から立ち上がると、どこかへ向かって足早に立ち去っていった。


 その目にうっすら涙と――強い怒りをたたえながら。

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