橘中の少年

谷野百合

橘中の少年

 去る冬の日、祖父が亡くなり、通夜が執り行われることと相成った。

 祖父は海容にして聡明、かつ非常に社交的な人物であった為、懇意にしていた知り合いも多く、普段はがらんとした家も正に芋の子を洗うかのような、煩雑な様相を呈していた。

 私も余所行きを着せられその場には居たものの何とできることがなく、見知らぬ人々にまるで発条ばね人形のようにお辞儀を繰り返す父母を、遥か遠くにみやり立ち尽くしていた。

 そのうち、見知った顔がやわらやわら近づいて来、

「百合さん、堪忍です。上のお部屋を整えたさかい、そこで待っとってもらえますやろか」と心底申し訳なさそうな顔で手を合わせた。

 私はこくりと頷いて、彼女と共に階段をあがり、二階のとある一室へおさまった。

 「終わったらすぐお迎えに来ますさかい。ほんま堪忍です」

 彼女は早口にそう言いい襖を閉め、とっとっとっと軽快な足音を残して去っていった。


 部屋の中央にはやや小さめな座卓があり、その上にはプラスチック鉛筆と幾枚かの紙があった。

 左手の押入れを開く気にはなれず、他にはさしてめぼしいものが見当たらなかった為、取り留めもなく花の絵を描いていた。

 興が乗ってきた頃、何処からかすっと覗き込む影があった。

 顔を上げると、年の頃は私と同じか少し上かという少年が、真白いシャツに黒いスーツを纏って立っていた。

「なかなかうまいね。ねぇ、君、鬼って描ける?」

 やわらかな笑みを浮かべながら、少年は私の隣へするりと座り込んだ。

「鬼? 桃太郎とかに出てくるやつ?」

 私がそう問うと少年は首を傾げ「まあ、何でもいいよ」と答えた。

「うち、鬼描いたことないんやけど……」

 そう呟きながらも何故かしら雰囲気に押され、躊躇いながら描き始めた。

 赤いからだに乱れた髪、2本の角、虎柄の腰巻きという、おおよそオーソドックスと思われる姿が描き上がった頃、少年は「ふぅん」とひどくつまらなさそうな声を漏らした。

「ごめんな、上手う描かれへんかったわぁ……」と私が鉛筆を置き謝ると、彼は雲の切れ間から日が覗くかのように清々しく笑い「ねえ、囲碁やらない? 君のおじいさんと、よく遊んだんだ」と云った。

「囲碁? 私それ、やったことない……」

 私が俯き加減でそう答えると、少年はカラカラと笑った。

「大丈夫。打ち方を教えてあげる」と云うや否や、少し離れた押入れから碁盤と碁笥一組を迷いなく取り出し、傍まで引き寄せてくる。

 私がやるともやらないとも答えないうちに、彼は「ちゃんとやると何時間もかかるから、今日はここまででやろう」と碁盤の一角を指でつっと囲むように撫ぜた。

 思わず頷き、目的も勝利条件も分からぬ侭、対局は始まった。

 

「僕が黒い石、君は白い石を使って」

 少年は碁笥を開け、黒石を人差し指と中指で挟むように器用に取り、ぱちりと一点に置いた。

 私も見様見真似で碁笥を開け、白石を親指と人差し指で不器用に摘み、彼が指差す場所へばちりと置く。

 ぱちり、ぱちり、とそんな調子で続けていると、少年は急に声をあげた。

「ねえ、君のこと何て呼べばいい?」

 私はやや躊躇い、「ゆり」とだけ答えた。

「ふうん、ゆりちゃんか。どんな字書くの?」

「百に、合うで、百合。」

「ふん、なるほど。いい名前だね。あ、その石はこっち」

「この家の子ってことは、百合ちゃんも四葩病院で生まれたの? ……ああ、これは、そこね」

「うん、そやよ」

「そうなんだ。ああ、待って。これは、こっちにおいた方がいい」

「あ、そうなん。ありがとう。」

 湧き水のようにさらさらと会話の続く中、彼の指差す通りに石を並べていく。

「うん。百合ちゃんって素直だね。朝に生まれたの?」

「ううん、夕方やよ。お月様も出てへんくて、真暗やってんて。朝に生まれたら素直なん?」

少年は「そうらしいよ」と短く答えた。

 ひっそり少年の顔を覗き見ると、随分と澄ました様子だった。

「そうなんや」

「夕方なのに真暗……ってことは、もしかして冬生まれ?」

 私はその問い掛けに強く驚き、

「そう! うち、十一月二十九日生まれでな、いい肉の日やの!」と力強く答えた。

 彼は「ああ、そうなんだ」と顔を上げ、華やかに微笑んだ。

「よう、わかったなあ。探偵さんみたいやわあ」と私が喜ぶと、笑静かに目を細めた。

 その後も取り留めのない会話を続けながら、少年の望む場所に石を置いていると、ある時彼の動きがぴたりと止まった。

「はい、百合ちゃんの勝ちだよ。おめでとう」

 少年はそう云うと眩しそうな顔で私を見つめ、すくりと立ち上がった。

「さて、そろそろ帰るね。……まあ、もうこの家に来ることもないかな」

 そう無感情に云う彼に私が驚いて訳を尋ねると、彼は当たり前という風に答えた。

「だって、百合ちゃんのおじいさん、もう居ないでしょ?」

「え、ほんなら、うちんち来る?」

  私が思わずそう声を掛けると、少年は真珠の如く白い歯をすっと見せて笑い、

「ああ、そうしようかなあ!」と、体躯の割に存外通る声で力強く応えた。


 その時、耳慣れた足音がとっとっとっと近づいてきた。

 振り向くと、すっと襖が開き姉やの顔があった。

「百合さん、堪忍な。お待っとさんです。あやま、ひとりで囲碁なんてしてはったん? 将来は女流さんやろか」

 その声に驚いて碁盤の向こうを振り返り見れば、虚空だけがあった。

「さっきまで、おない年くらいの男の子が居ってな、その子に教えてもろてたんやけど……」

 ややして、恐る恐る彼女にそう云ってみれば、青い顔で

「何言うてはるんです! うちが見てたからに、誰方も上へは…… そもそも、今日は同い年頃の子なんて、ひとりも来てはりまへんえ!」


 少年が一体何者であったか、未だ知れない。

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橘中の少年 谷野百合 @taninoyuri

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