VOL.2

『64歳?』

 俺は森本先生が見せてくれた、田沼直人のパーソナルデータに目を通して聞き返した。

 家族欄に『父親:田沼伸介。30歳』に次いで、

『母親:田沼百合子たぬま・ゆりこ。64歳』とあったからだ。

『ということは・・・・』

『そう、お母様の方がお父様より約30歳は年長ということになります。』

 つまりこの田沼直人は、母親が54歳か55歳の時に産んだ子供と言う計算になるわけだが、どう考えてもこれは不自然極まる。

 おおよその見当はついたが、念のために訊ねてみたものの、返って来た答えは、

『さあ・・・・その辺りの詳しい事情につきましては・・・・』

 と言って彼女は言葉を濁した。

『他に分かっていることはありますか』俺が質問を換えると、先生は別の何かを取り出した。

 写真だった。

 どうやらそれは田沼直人の小学校の入学式のものらしい。

 校名が書かれた門柱の前で、両親と少年、合計三人が写っている。

 父親はスーツにネクタイ、色白で背丈は中背だが痩せていて、なかなかの二枚目だ。

 母親の方も明るいクリーム色のスーツに白のブラウスという、典型的なフォーマルスタイルだ。

 母親は夫や息子に合わせようと、出来るだけ若作りはしているようだが、やはり目尻の皺、ほうれい線、白いものが目立つ髪は隠しようがない。

 男の子は新品のブレザーに半ズボン、白いスニーカーを履いており、背中にはランドセルを背負っている。

 父親の方は笑っている。ただ、何となく作り笑いに感じられる。

母親は喜んでいる。年齢としをとって産まれた息子の入学式だから、そりゃ嬉しいのは当たり前だろう。

 だが、少年はと言うと、どこか暗い顔をしていたのは、俺の気のせいだろうか?


『さっき妻が病気でと、父親が言ったとおっしゃいましたが、何の病気でどこに入院しているんです?』

 俺の言葉に森本先生は答えて良いものかどうか迷っていたが。

『それが・・・・”やすらぎの郷”ってご存知ですか?千葉県のⅠ市にあるらしいんですが、そこにおられるとのことです』


”やすらぎの郷”

 月並みな名称だが、それで俺は、なるほどなと、合点することが出来た。



”社会福祉法人・愛寿会・特別養護老人ホーム・やすらぎの郷”

 そこはⅠ市の市外から少し外れた森の中にあった。

 割と静かで落ち着いた・・・・これも月並みな表現だな。

 

 こういう施設には仕事の性質上度々訪れていたが、まあどこも似たり寄ったりである。


 俺は玄関で案内を乞うと、施設長と呼ばれる40がらみの小柄な男がやって来た。

 認可証ライセンスとバッジを提示し、

”田沼直人の件でやってきた。こちらに彼の母親がいると聞いてきたが、是非会わせて貰いたい”

 しかし施設長氏は妙な顔をしてこちらを見ているだけだ。

 埒があかないと思った俺は、森本先生が書いてくれた委任状も見せる。


 それでようやく納得したのだろう。

『分かりました。それではどうぞお上がり下さい』といって、俺にスリッパを出してくれた。

『しかし』

『しかし、なんです?』

『お会いになっても、参考にはならないと思いますよ。何しろ、田沼百合子さんは・・・・』

苦い顔をしながら先に立って、俺をエレベーターまで案内してくれた。


二階のドアが開くと、俺の鼻に、”ある種の臭い”が漂ってきた。

”匂い”とか、

”香り”といった厳かなものではない。

”臭い”、即ち”悪臭”の類。

 それでいて誰もが一生の内必ず嗅がねばならない。

あの”臭い”である。

 黄色いエプロンにゴム手袋をはめた、ジャージにポロシャツ姿の女性が二人、一人は大きなビニール袋、一人は銀色のワゴンにシーツのようなものを積んで押し、長い廊下を速足で移動してゆく。


 俺と施設長氏は、何気ない風を装って後を追っていった。

『205号室』と札の出た部屋の前でワゴンが止まり、さっきの女性が二人、中に入った。


 部屋番号の下には、入居者の名前が出ている。

 どうやら居室は四人部屋らしい。

 その中に、

『田沼百合子』の札もあった。

 

 臭いはその部屋の中からのものだった。


 もう何が起こっているか、流石の俺でも判別がついた。

 二人の女性介護士のうち、若い方がワゴンの中から大人用の紙おむつとシーツを取り出す。


 俺は戸口より2メートルほど離れて、暫くの間様子を伺った。


 2~3分後、介護士二人は仕事を終え、一人がワゴンを押し、一人が大きなビニール袋を提げて出てきた。

”あの臭い”は、多少は緩和されたものの、ビニール袋の中から漂ってくる。


『すみません』

 俺は再び声をかけ、認可証とバッジを見せ、田沼百合子の事について訊ねた。


『ええ、田沼さんはこの部屋ですが・・・・でも彼女と話すのは・・・・』

 ワゴンを押していた幾分年長の介護士が困ったような表情を見せる。

『事情はおおよそ見当はつきますがね、それでも一度はお目にかからなければならないんです。何しろ仕事ですからね』


 仕方がない、とでもいうように、彼女は若い介護士にワゴンを任せ、

『どうぞ』と、俺を居室に通した。

『田沼さん、百合子さん、ご面会ですよ』

 

 入ってすぐのところにあるベッドの端に腰を掛けている老婦人に声を掛けた。


 



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