第24話 HANON

 璃緒は過去に、ピアノのコンクールに出場したことがある。

 中学1年生のときのことだ。「コンクールに出てみない?」という先生のお誘いを受けた璃緒。もし、彼女が「コンクールがどういうものか」を知っていたら断ったかもしれない。だが彼女は、あろうことか発表会と勘違いをして「はい」と頷いてしまったのである。


 ――発表会は毎年しなければならない行事。


 両親から授業料を支払ってもらっていることもあり、璃緒はそれを自分の義務だと思っていたのである。そのため、「今年も嫌だけれどやらないといけない」くらいに考えていたのだ。 


 彼女が「コンクール」と「発表会」の違いに気づいたのは、それほど遅くはなかった。課題曲は二つ。それぞれの楽譜に加え、先生が『HANONハノン』という楽譜を璃緒に渡したときに、彼女はようやくいつもの発表会とは何かが違うことに気づいた。


「これで指の練習をしましょう」


 指の練習?


 璃緒が心の中で首をかしげていると、彼女のきょとんとした表情から先生は何かを悟ったようで、八ページ目を開いた。


 そこには、大譜表(ト音記号とヘ音記号が書かれた譜表を一つにまとめたもの)のヘ音譜表から、16分音符の連桁れんこう(音符同士の頭がくっついている音符のこと)が見開きいっぱいに書かれていたのである。


 ピアノの先生は、そのページに書かれてある音をピアノで鳴らした。


 ただ、ひたすら両手で、ドミファソラソファミ、レファソラシラソファ……と、同じ指の動きを永遠と繰り返していくのである。ピアノの端っこまで行ったら、ソミレドシドレミ……と弾いていく。そうやって鍵盤を何度も往復するのだ。


 最初は「とっても簡単じゃん!」と思った璃緒だったが、やり始めて酷い苦痛に襲われた。単調な音のつながりは、楽譜に物語という物語がないのでとても退屈なのだ。


 ときには、ドミファソラソファミのなかに強弱をつける練習もあった。クレッシェンドだんだん強くからデクレッシェンドだんだん弱く

 またあるときは、全て「fffフォルテッテッシモ」で弾くこともあった。この記号は、それほどピアノの才能があるわけでもなかった璃緒にとっては、音の強さで言ったら「最高に大きく」くらいの感覚で、とにかくベタベタと強く! 強く! 鍵盤を叩くようにして弾かなくてはならなかった。しかし手が小さかった璃緒は、思うように指に力を込めることが出来ず、投げやりになったことが何度もある。

 逆に「pppピアニッシッシモ」もあり、それはとても小さく、小さく抜き足差し足のような音で弾かなければならない。しかし、そんな繊細な指使いをしながら曲を弾いたことが無かったので、単調な練習は璃緒の未熟さを否応なしに認識させられたのである。


HANONハノン』を使って練習は音の強弱だけではない。テンポが決められており、メトロノームがカチ、カチ、カチ、カチとピアノの上で鳴っていて、それを聞きながら色々なことに気を付けなければならないのである。


 一つ、音の強さを均等に。

 二つ、テンポがぶれないように。

 三つ、指がもつれれないように。

 四つ、右手と左手が同じ速度になるように。

 

 だが、それらに対し同時に集中するのがとにかく難しい。音に集中していると、いつの間にか自分が何を弾いているのか見失うくらいだった。


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