第5話 話し合いの末に
茉莉花が声を潜めて聞いたので、璃緒は奥に見える支店長の席を細目で見た。
五十半ばの小柄な男である。パソコンに向かって座っており、いかにも仕事をしているように振舞っているが、普段はネットサーフィンばかりをしているのが残念なところの一つだ。また若い職員には根性論だけを言って聞かせる時代遅れな人物でもある。
そんな人物が、茉莉花の話を聞いたら何というか。聞かなくても分かるというものである。璃緒は軽く息を吐いた。
「支店長は『行ってこい!』って言うよ。顧客が離れるリスクを考えるより、茉莉花ちゃんを犠牲にする方を選ぶと思う」
茉莉花は肩をガクッと落として頷いた。
「……そうですよね。そうだと思ってました。となると、もうやるしかないってことですよね?」
「茉莉花ちゃんが断らなかったらね」
「うーん……分かりました」
彼女は眉をひそめて唸る。これは時間を置いた方が良いなと思った璃緒が、茉莉花から離れようとしたときだった。思いがけず腕を掴まれる。
「茉莉花ちゃん?」
「清水さん。話はまだ終わっていません」
「へ?」
「あのですね。私はめちゃくちゃ音痴なんですよ。清水さんカラオケ一緒に行ったことあるので知っていますよね?」
「何で急に、カラオケ」
「答えて下さい」
真剣な顔で言われ、その威圧に押されて璃緒は答えた。
「えー……? それなりに上手かったと思うけど」
「真面目に答えて下さい。お世辞もいりません」
「いたって真面目なんですけど。お世辞でもないし」
茉莉花とカラオケは行ったことはあるが、それは飲み会の二次会のときである。つまり、酔っ払いが歌っているので実力のほどはよく分からない。ただ、記憶している限りそれなりだったはずだ。
「あのね、音痴って言うのは私みたいなのを言うの。ほんと酷いから歌わないけど」
璃緒は、カラオケで歌を歌うと音程が外れていつも悲惨なことになる。一緒に行った人は大抵「声がきれい」とフォローしてくれるが、歌が下手なことは璃緒自身認識しているので、できうる限り人前では歌わないようにしているのだ。
「私は清水さんの歌聞いたことないので判断しかねます」
硬い調子で答える茉莉花に、璃緒は笑い半分で答える。
「だから、自分で音痴って言う自覚があるから歌ってないっていってるじゃん」
「でも、分かりました。私も本気出します」
「……え、本気って何?」
「清水さん、『昔、ピアノ習っていた』って前の飲み会の時教えてくれましたよね。私、習い事と言えば水泳でしたし、部活もソフトボール部で運動ばかりしていたから、ヴァイオリンのレッスンなんて無理です」
茉莉花の訴えに対し、璃緒は訝し気にしつつもかわしてみせる。
「確かに習っていたとは言ったけど、『弾ける』とは言ってないよ。それに、ヴァイオリンと関係ないし。というか、弾けないからレッスンに通って弾けるようにするんだよ。だからこういうのは、文科系だろうが体育会系だろうが関係ないって」
璃緒はピアノを幼稚園から中学を卒業するまで習っていたが、はっきり言って下手である。そういう自覚があるのだ。
「でも、こういうのは音楽経験者の方が良いと思うんです!」
茉莉花がそう言ったので、璃緒は目を瞬かせた。ようやく彼女の意図するところが見えた、ともいえる。
「ちょっと待って、茉莉花ちゃん。その言い方だと、私に代わりにヴァイオリンレッスン受けてきてって言ってない?」
すると茉莉花は急に瞳をきらめかせて頷いた。
「そのつもりで言っています」
「なんでそうなるのっ」
「だって、大川さんとの関係悪くなったら嫌だし、美味しいお菓子食べられなくなるし……」
「ちょっと、私情混ざっているけど!」
「と、とにかく!」
茉莉花は自分の顔の前で拝むように手を合わせると、璃緒に懇願した。
「清水さん、お願いします! 私は上手く断れません!」
「えー……」
このような経緯があり、璃緒はヴァイオリンレッスンを受けることになってしまったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます