第三章 思い出のメトロノーム

第19話 借りてきたヴァイオリン

「ただいま」

「おかえり」


 璃緒が家に帰ると、ちょうどランニングから帰って来た弟の朝輝ともきと玄関先で鉢合わせした。当然彼は、姉が持っている見慣れぬ黒いケースを不思議そうな顔で見つめた。


「そのケース、どうしたの?」

「ああ、これ?」


 璃緒はケースを軽く上げて見せる。

「ヴァイオリンが入ってるのよ」


「ヴァイオリンを始めた」と家族に話すのは何となく恥ずかしかったが、どうせ家で練習すれば音が聞こえて来るだろうからいずれバレる。そのため、璃緒は正直に話した。


「ヴァイオリン? 姉ちゃん、習うの?」


 朝輝がまじまじと姉の顔を見る。


(これは……驚いている、のかな?)


 璃緒がピアノを止めてから、12年近く経つ。

 その理由は「高校受験が控えていたから」だったが、それは表面的なもの。事情はもっと複雑だ。その証拠に、彼女はピアノのレッスンに行かなくなってからというもの、ほとんどピアノに触れていないし、そもそも家族がいるときは弾かない。そのため両親は、「璃緒はピアノをはじめ、音楽自体好きではなくなってしまったのではないか」と思っているし、朝輝も姉がピアノを弾かなくなった本当の理由については知らないけれど、弟なりに何かを察しているらしい。そのため、「それ、大丈夫なの?」と問いかけるような、そして信じられないような顔をしていた。


 璃緒は、気を使うのが上手い弟に心配をかけないよう、「仕方なくやっている感」を出して弁明した。


「そうそう。仕事の関係で断れなくてさ。三か月間だけレッスンに通うことになっちゃってね」


 璃緒は革靴を脱ぎながら玄関の低い敷居をまたぐぐと、朝輝もそれに続いた。


「へぇ……。姉ちゃんが、ヴァイオリンか」


 振り返ると、彼が何か言いたそうな顔をしているので、璃緒は次に来るであろう言葉を防御するかのように、「似合わないでしょ」と苦笑する。だが、弟からは意外な言葉が返って来た。


「似合うとか似合わないとか関係ないだろ。まぁでも……、いいんじゃない」


 彼はそう言うと璃緒の傍を通り過ぎ、玄関の左隣にある階段を昇って行った。きっと着替えるために、自分の部屋に向かったのだろう。


(いいんじゃないって、どういうこと?)


 璃緒は弟の意図するところがよく分からず、小首を傾げつつ、自分も二階にある自室へ向かうのだった。



♢♦♢



(……ヴァイオリンが、ある)


 翌朝、目が覚めた璃緒は今日が休日であることをいいことに、ベッドで横になりながら床に横たわる黒いケースを眺めていた。


 自分の部屋に新しい家具が追加されたときのように、それがあるだけで何だか部屋が少し変わったかのような気がする。


 璃緒はのそのそと起き上がると、ケースの前に座るとおもむろにそれを開けた。


(ヴァイオリンのケースって、思った以上に厳重だ)


 瑞樹から借り受けたヴァイオリンケースの素材は、プラスチックの固いケースの上に、ポリエステル製の布で覆われている。留め具が三種類あり、両側からかけられるファスナー、その中央にあるのが留め金、さらにダメ押しとばかりに大きめのスナップボダンが付いていた。


 璃緒はそれを順番に開放していき、そっと上に蓋を開けると、瑞樹から借り受けたヴァイオリンが姿を現す。


(年季が入ってるなぁ……)


 少し赤みがかった茶色いボディは、新しいものにはない落ち着いた艶を放っている。また音程を決める指板に目を凝らすと、何度も指を置いているためか指の跡がほんの少しだけ見えた。昨日の瑞樹の説明で、指板は黒檀こくたんなどの固い木材が使われているといっていたはずだが、うっすらと見える指の跡を見ると、相当使い込んであるのが伺えた。


(何か……綺麗)


 フォルムといい、色合いといい、不思議と惹き込まれるように美しい。それは持ち主であり使い手である彼が、このヴァイオリンを愛おしく思い大切にしているからだろう。


(大切に使おう)


 もちろん、人様から借りたものなのだから、ぞんざいに扱うつもりは毛頭ないが、貸してくれた瑞樹が大切に使っていたように、このヴァイオリンと付き合っていきたい、と彼女は思うのだった。 

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