第18話 始まり
「肩に載せているときは、緊張しているのでそう感じたのでしょう。ヴァイオリンはとっても軽いんです」
「そうなんですね……」
「そうでなければ、長時間に渡る演奏はできませんよ」
微笑む瑞樹に言われて、璃緒はオーケストラの人々の様子を思い出した。交響楽団の演奏は、学校の授業の一環でしか聞いたことないが、奏者が短くとも一時間はヴァイオリンを肩に持ち続けていたことを思い出す。
「そっか……」
「では次に、ヴァイオリンのしまい方と出し方を覚えましょう」
「はいっ」
それから璃緒は瑞樹からヴァイオリンケースにヴァイオリンをしまう注意点や、取り出し方、初歩的な練習の仕方などを確認したのち、彼から「お疲れ様」と声を掛けられた。
「やってみていかがでしたか?」
瑞樹はいつも部屋の隅に置いてあるテーブルと椅子を用意して座ると、璃緒に尋ねた。
彼女は彼の向かいに座り、一通りの流れを思い出して苦笑する。
「難しいなって思いました。こう……肩に何かを載せて動作をすることがあまりなかったからかもしれません。正直、慣れるものなのか疑問です」
「最初のうちは皆さんそうですよ。でも、子どもでも大人でも練習すれば必ず弾けるようになります」
「そうでしょうか?」
璃緒は思わずそう聞いてしまったが、瑞樹は気にする風もなく「ええ、勿論」と笑って答えた。この笑顔で優しく肯定されるたびに、本当に弾けるようになるかもしれない、と思わせるのだから、この先生は凄いのかもしれないとちょっぴりだけ思ってしまう。
「さて、今日のレッスンはこれで終わりにしましょう。このヴァイオリンは、清水さんにお貸ししますので、お忙しいでしょうけれど、是非仲良くなって下さい」
つまり、肩に載せて弾ける態勢になるように練習しましょう、ということである。
「それから、もし出来そうなら『ボーイング』もやってみて下さい」
「ええっと……弦を指で押さえない状態で、弓で弾く、ですよね……?」
「そうです。弦を指で押さえない状態で出る音のことを『開放弦』と言います。清水さんは、まずA《アー》線でそれを練習しましょう」
「アー線は、ええと……」
「右から二番目の弦で、『ラ』の音です」
覚えることが沢山ありすぎる。とりあえず、仕事で使っている手帳についている白紙にメモしてはいるが、今度からヴァイオリン用にノート持って来てメモをしたほうがいいなと思った。
一人で練習するときのために必要な情報でもあるが、また大川の家に訪問したときにも役に立ちそうである。そのためには、きちんと書き残していた方がいい。
「分かりました」
「分からないときはいつでも聞いてください。あ、そういえば連絡先を交換していませんでしたね。レッスンの連絡などもお互いあるでしょうから、お聞きしても構いませんか?」
それもそうだ、と璃緒は思った。予定していても行けないことだってある。その場合は、瑞樹に連絡を入れなければならない。そもそも比較的自由にレッスン日と時間を決められるのだから、先の自分の予定が定まってから、レッスンの予定を入れるという方法もできる。だが、それをするにはどちらにしても彼と連絡先を交換する必要があった。
一瞬だけ璃緒は、「三ヵ月のお試しだけで個人的な連絡先を交換するのもどうなんだろう」と思ったが、やり取りをした限り、後々トラブルになるような感じでもなかったので快諾した。
「はい、大丈夫です」
メールよりもLINEの方が便利だからと、璃緒は瑞樹とその連絡先を交換する。すると出て来たアイコンは、ヴァイオリンの先生らしく、ヴァイオリンの写真になっていた。ちなみに璃緒のアイコンは、当たり障りのない空の写真である。
「次回のレッスンの予定は入れておきますか?」
「そうですね……」
自由にレッスンを入れらるのも有難いが、とりあえず今回は二週間後に入れておこうと思った。
「じゃあ、再来週の土曜日にお願いできますか。時間は……15時はどうでしょう?」
「いいですよ。では、予定を入れておきますね。もちろん、仕事などで難しくなったときは、変更が可能なので仰って下さい」
「わかりました。ありがとうございます」
ヴァイオリンのレッスンを始めるための準備がこれで整った。次からは、本格的にレッスンが始まることだろう。
璃緒は席を立つと、黒くてメッシュ素材に覆われたヴァイオリンケースを手に持ち、瑞樹に言った。
「今日はありがとうございました」
「気を付けてお帰り下さいね。再来週お待ちしています」
こうして、璃緒のヴァイオリンレッスンが始まったのだった。
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