第20話 朝食
璃緒はヴァイオリンをしまうと、部屋着のまま一階へ降りる。リビングに入ると、ちょうど母が朝食の準備をしているところだった。
ダイニングキッチンの傍にあるテーブルには、切ったばかりの生野菜が並んでいる。レタス、キュウリ、ミニトマト。どれも瑞々しく、ほのかに野菜独特の爽やかな香りがした。
「おはよ」
璃緒が声を掛けると、母は声だけ返事した。
「おはよう。目玉焼き焼くけど食べる?」
「うん」
ちょうど焼くタイミングだったようだ。頷くと、母は冷蔵庫から卵を取り出し、器に追加する。璃緒はその横で、ポットからカップにお湯を注ぎ、冷ましながら白湯を飲む。
「今日、仕事?」
璃緒はテーブルの定位置に座ると、一応母に尋ねた。パートなので休みが不規則なのは分かっている。だがいつ休みで、いつ仕事なのかまでは璃緒は把握していのだ。
「ううん。友達と買い物」
すると母が熱したフライパンに、生卵を入れたのか、ジュワッ、といういい音が聞こえた。それと同時によい香りもしてくる。
「そうでしたか。楽しんできて下さいませ」
璃緒は半分ふざけた調子でそう言いながら、自分用にサラダを取り、ドレッシングをかけた。
「ええ、そうするわ」
娘の調子に合わせて返事した母はうきうきしていた。きっと楽しみにしていたのだろう。そして、言うなら今だろうな、と璃緒は思った。ゆっくりと飲んでいた白湯を飲み切ると、娘は母の方を見た。
「お母さん」
「うん?」
いい感じかな? とフライパンに被せていた蓋をちょっと開けて、中身を確認する母に、璃緒は言った。
「私、ヴァイオリンを習うことになった」
すると母は、娘の方を見てきょとんとしつつ、さりげなく火を消した。どうやら目玉焼きは出来上がったようである。
「ふーん……。やってみたかったの?」
母は買い物とは別のうきうきを隠しながら、娘に尋ねた。
「そうじゃなくて、仕事の関係でやらざるを得なくなった」
すると母は面白くないものを見るような目になる。
「何それ」
「いや、私も困ってんだけどさ」
璃緒が個人情報に影響がない程度に掻い摘んで説明すると、母は再び「ふーん」と言った。
「三か月って期間限定だけど、指導してくれるわけだからテキトーにも出来ないじゃない? だから、家のなかで練習するからうるさくなるかもしれないけど……」
「防音してある部屋で練習すればいいでしょ」
階段を上がった目の前の部屋。璃緒と朝輝がピアノを習っていたので、練習が近所迷惑にならないようにと、家を建てた際に少しばかり気を使った造りをしている。
「そうなんだけど。絶対に漏れない程の防音でもないし」
ピアノを習っているとはいえ、ピアニストを目指している子がいるわけではない。
そのため、外も家のなかも窓や扉を閉めていても少しは聞こえてくるので、完全な防音ではないのだ。
「でもさ、この部屋はピアノがある部屋の真下だけど、それほど聞こえてこないじゃない? だったら、他の部屋にだって大して聞こえないわよ。気にしなくて大丈夫」
一人で納得する母に、璃緒は半眼になった。
「お父さんが聞いているレコードの音、扉閉めてても何の曲か分かるくらい聞こえる」
その答えに、母はちょっと驚いていた。
「え、そうなの? お父さんがレコード聞いているは、音はあんまり聞こえてこないけど……」
「私の部屋は聞こえる」
「それだったらうるさいとか気にしなくてもいいんじゃない? だって、うるさいって思うのは璃緒だけなんだから」
母は目を瞬かせたあと、さも当然のように言う。
(そうなんだけど……)
しかし、突然家のなかから聞き慣れない音が聞こえたらびっくりするだろう。そう思って言ったのだが、母には上手く伝わらなかったようである。
璃緒はため息をつき、ミニトマトを一口頬張った。
「まあ、練習するっていっても、そんな熱心にやるつもりはないから大丈夫。どうせ平日は仕事で疲れてできないから、休日しか練習できないし。皆が出かけたときを見計らってしますよ」
「別にそんな気を使わなくてもいいのに。ピアノだって、いつでも弾いていいのよ」
母は皿に載せた目玉焼きをテーブルに置きながら言った。
弟の朝輝は、気が向いてたときに何かしら弾いている。それもわざと防音室の扉を少しだけ開けて。それは単純に、母に聞かせるつもりで弾いているのだ。その証拠に母が好きな曲である、『アメイジンググレイス』や星野源の『恋』などが聞こえてくるのだから。
しかし「そんなことをしているから、お母さんは防音室にそれほど気にならないのだ」と璃緒は頭の隅で考える。
一方で璃緒はピアノの教室をやめてからというもの、一度も弾いたのを聞いたことが無い。だから母が言いたいことも、気持ちも何となく分かる。母は、璃緒のピアノの演奏を聞きたいのだ。
(誰もいないときに、ちょっと弾いたことはあるんだけどね……)
璃緒は、諦めたように小さく笑う。
「気が向いたらね」
そう言って、これ以上ピアノとヴァイオリンの話をしないように、彼女は朝食を食べることに集中するのだった。
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