第16話 初めての音

 璃緒は瑞樹に促されてその場に立ち上がる。


「首を右に傾けて下さい」


 彼に言われるままに首を右に傾けると、左側の肩の上に空間が出来る。そこへ瑞樹はヴァイオリンを滑り込ませた。


「では清水さん、そのままゆっくり首を元の位置に戻しながら、ヴァイオリンの『あご当て』にあごをのせて下さい」


 璃緒は指示された通りに首を動かすと、思ったよりも簡単にヴァイオリンが肩とあごの間に収まった。『あご当て』に置いてある自分のあごの位置が正しいかどうかは分からないが、前回とは打って変わってヴァイオリンがしっかりと挟まっている。これが『肩当て』によるものなのだろう。


 しかし、あまりにも力を入れて挟みすぎていたせいか、瑞樹に「力を抜いて」と言われる。


「清水さん、そんなにぎゅっとしなくていいんですよ。演奏するときは必ず左手が添えられているので、そこまで挟むことを意識しなくていいんです」


 そう言われるが、前回やったときも同じだった。璃緒には自分の意志で力を抜くことが出来ない。


「先生! そんなの無理です! 力を抜いたらヴァイオリン落っことしますっ」


 折角安定して持っているのだ。これを離すわけにはいかないと璃緒は益々力をいれてしまう。


「うーん、そうですか……。じゃあ、清水さんの左手をお借りして――」


 すると瑞樹は璃緒の左手を取って、ヴァイオリンの「ネック」(指板の下の部分)に添えさせる。


「こうやって持ちましょう」


 にっこり笑う瑞樹に対し、璃緒はまるでマネキンのように決められたポーズをキープする。先程よりも手が添えられて安心したものの、握っていいのか、握ったとしても弦に触れていいのか分からず、落ちる不安はまだ消えていない。


「先生、無理ですって! 怖い!」


 思わずそう言った璃緒に対し、瑞樹はさらに追い打ちを掛けた。


「大丈夫です。はい、その状態で右手に弓を持ちます」

「ええ⁉ この状態で、ゆ、弓ですか⁉」

「持てます、持てます。大丈夫です。右手をきつねさんの形にしてもらっていいですか?」

「き、きつね⁉」


 体が極度の緊張で強張っているのに、右手を「きつねさんの形」にしろとは、中々酷なことを言う。


「コンコン、ほら、中指と薬指を親指にくっつけるんです」


 まるで子供に教えるような言い方だが、璃緒はそれどころではない。


「そんなことは分かっていますよ! でも、右手が!」


 上がらないのである。

 すると再び瑞樹が璃緒の右手を取り、とんとんと叩いて力を抜かせてから肘を曲げさせた。


「清水さん、この状態できつねさんです」


 自分の意志ではどうにもならない右手が、瑞樹を介すと何とかなったので、璃緒は不思議な面持ちになる。


 とりあえず右手が動かせるようになったので、ぎこちないながらも「きつねさん」を作った。


「こう、ですか?」

「はい。それが弓を持つときの基本的な形です。さ、指をくっつけたところに隙間を作って弓を持ちます」


 璃緒の右手は、緊張のあまり自分の意志で言うことを聞かないので、瑞樹に全てやってもらう。そのため彼に指先の面倒まで見てもらいながら、何とか弓を右手に持った。


「ひいぃ……」

「はい、あとは弓を弦の上に置くだけです。そしたら弾けますよ」


 楽観的に言う瑞樹に、璃緒は小さく呟く。


「無理です……」


 弓を持ったのはいいが、弦の上に載せられない。縦に持った弓を横にしようと試みるが、傾きを大きくしていくにつれて指が弓の重さに耐えられず、それが倒れる勢いでヴァイオリンにぶつかりそうなのである。


 瑞樹が言うように、確かに璃緒はヴァイオリンを弾ける状態にはある。しかしまるで弾ける気がしなかった。


 ピアノなら鍵盤を押すだけで誰もが弾くことが出来た。弾く技術なんかなくても、鍵盤を押せばポーンと音が出てくれる。ピアノはどんな人にでもその音を示してくれるのに、ヴァイオリンは持って構えても、全くそれをさせてくれない。何と難しい楽器なのだろうか。


 しかし、弱気な璃緒を励ますように瑞樹は言った。


「大丈夫です。弾けます」

「そうでしょうか……」


 不貞腐れたような表情をする璃緒に、瑞樹はくすっと笑う。


「ええ、弾けます」


 すると彼は璃緒の右手首を手に取ると、ヴァイオリンの弦の上に導いた。不思議なことに彼が触れた璃緒の右手からは力が抜け、優しく弦の上に弓が載る。


「……」


 そして彼はそのまま彼女の手首を左右に振った。


 ラー……、ラー……、ラー……。


 どこの位置にある弦から音がしているのか璃緒にはよく分からなかった。ただ、持っているヴァイオリンから生まれた音は、不安定ながらも優しい響きを放っている。

 確かヴァイオリンは、ちゃんと音を出すことも難しいと言われている楽器ではなかったか。それが今自分の手の中で、確かな音を響かせている。


「……!」


 璃緒は驚いて目をぱちくりさせたまま声が出なかった。


「別の音も弾いてみましょうか」


 瑞樹はそう言うと、少しだけ璃緒の腕を高く上げる。するとまた別の音が聞こえた。先ほどの音よりも低い音である。


 レー……レー……。


 そして更に低い音。


 ソー……ソー……。


 低い音になればなるほど、ヴァイオリンに触れている肩やあごから強い振動が伝わってくる。


 ――楽器が、鳴っている。


 璃緒はそう思った。

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