第15話 弓と松脂

 瑞樹は持っていたヴァイオリンを机の上に置くと、一度自分の作業台に戻って、弓と固いクッションのようなものが付いた、何やら細めの木の板を持ってきた。それには何かに引っ掛けるが付いており、長さは二十センチくらいあるだろうか。


「これからヴァイオリンを持って弾いてもらいますが、それに欠かせない道具があります。それがこの『弓』と『肩当かたあて』になります。『弓』は言わなくても分かりますよね?」


 瑞樹に聞かれたので、璃緒は右腕を動かしヴァイオリンの弓を弾く動作ジェスチャーをする。


「こうやって、弦を擦る道具ですね」

「その通りです。馬の毛で出来ていて、ケースに仕舞っているときはこうやって毛がと弛んでいます」


 彼は璃緒が見やすいように、弓を横にし、毛が下に向くように持った。


「弾かないときはそうやって保管するんですね」


「はい。弾くときは、逆にこれをピンと張った状態にしないといけません。弓を持つ手元に『毛箱けばこ』という箱のような形になっている部分があるんですが、それがある端っこにねじがあるんです。それをくるくると回すと――」


「あ、毛に張りが……」


 弓の毛に緩みがなくなり、真っ直ぐになる。


「そうなんです。こうやって、弓の毛を張ります。あと弓に関して説明が必要なのは……、『松脂まつやに』かな」


「『松脂』って、あの野球のピッチャーが投げる前に付けるあれですか?」


 その問いに、彼は頷いた。


「確か野球で使われるのは『ロジン』って言うんですよね。しかしヴァイオリン用のものとは形が似ても似つきませんが」


「形?」


「ええ。見た方が早いと思うので、ちょっと待ってください」

 すると瑞樹はヴァイオリンのケースから「松脂」を持って来てくれる。それは布製の袋に入っており、中を出すとさらに布に包まれてた。彼が手のひらの上で丁寧に開くと、中からべっこう飴を固めたようなものが現れた。


「これです」

「え⁉ これが『松脂』なんですか⁉」

「そうです」


「松脂」のイメージが、野球で使われるものしか知らなかったので璃緒は驚いた。綺麗な色をしたそれは、すでに使われているのか表面が少しばかり削られている。


「弓の毛に塗りやすいようにこういう形に固められているんです。僕はこの松脂しか使わないので、メーカーによっては少し違うとは思いますが」


「でも、どうして松脂を塗るんですか?」


「これを弓の毛に塗ることで、滑らなくするんです。松脂が付いていない毛は、するするとしていて、弦をこすることが出来ません。そのため音が出ないんです」


「そうなんだ……。ヴァイオリンって、本体と弓さえあれば、何もしない状態で弾けるのだと思っていました」


 璃緒が触れてきて慣れ親しんでいる楽器はピアノ。その他に扱ったことがあるのは、鍵盤ハーモニカやリコーダーくらいである。学校にあった楽器を思い出してみても、弾くための準備として何かをしなければいけないものは何一つなかった。


 そのためヴァイオリンもそれを構え、弓さえ持てばいいのだと思っていたのである。しかし音を出すためには調弦チューニングが必要だし、弓には松脂を塗らなくてはならない。今までの楽器ではない過程だ。


 そもそもちゃんとした音が出るかどうかは、また別問題ではあるが。


「この弓にはすでに松脂が付いているので、塗り方などは今度お教えしますね。さて、一通り説明が終わったので早速弾きますよ! ヴァイオリンを持って、肩とあごの間に挟みましょう。あ、その前に、持ちやすいように『肩当て』を付けますね」


「先生、さっきも言ってましたけど『肩当て』って……?」


 璃緒の質問に、瑞樹は「肩当て」に付いている足のねじを回し、高さを調節しながら答える。


「ヴァイオリンを肩とあごに挟んで持つわけですが、それを楽にするために高さを調節する器具のことです。前回はこれを付けないまま持ってもらったので、凄く大変だったと思いますが、今回は少し楽になると思いますよ」


「前回は付けなかった」というフレーズに、璃緒は顔を少ししかめる。


「どうして前回は付けてくれなかったんですか? 結構大変だったんですよ?」


 しかし彼は気にする風もなく、ヴァイオリンに「肩当て」を装着させながら答えた。


「ヴァイオリンを初めて持つ人には必ずしていることです。正しい持ち方を習得するための姿勢を確認するやり方、とでも思ってください。さ、清水さん。準備が出来たので、立ちましょう」

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