第二章 はじまりの音

第12話 一階のレッスン室

 次のレッスンは、はじめて瑞樹に会ってから二週間後のことだった。


 前回は仕事が休みの日に行ったので日中だったが、今回は仕事帰りに寄ることにした。


 最近は璃緒の職場でも「働き方改革」が導入され、週に二回、定時で上がる仕組みが導入されている。


 しかし、実際には他の日にしわ寄せが来ているのが現状だ。特に、若手や中堅職員が顕著である。そのため璃緒も例外ではないのだが、定時で上がる日は帰るように促されるため、職場に残っているわけにもいかない。また家に持ち帰って仕事をするのは、個人情報の漏洩にも関わることでコンプライアンスに抵触することから、仕事があっても否応なしに帰らざるを得ないというわけだ。


 ただ茉莉花の場合はその時間で、新しい出会いを求めて夜の街に繰り出す。どうやったって帰らされるのだから、その時間を楽しもうということなのだろう。お陰で璃緒も頻繁に誘われるのだが、彼女は居酒屋でわいわいするのが好きではない。


 狭い空間に、人々が肩を寄せ合って盃をかわして話し込むのは、日頃のうっ憤を晴らせると茉莉花は言うが、璃緒は喫茶店などで一人で静かにお茶を飲んだ方が好ましい。


 またお酒は嗜む程度であるため、一緒に飲みに行って飲み放題コースを頼むと割高になってしまうということも気が進まない要因でもある。


 もちろん茉莉花と話すのは楽しいし、飲み会が嫌いなわけではないが、体力もお金も使うことから毎週行きたいとは思わなかった。


 そこで璃緒は、この時間をヴァイオリンのレッスンに当てることにした。そうすれば茉莉花の誘いを断る正統な理由にもなるし、一石二鳥である。


 ということで、璃緒は仕事が終わるとそのまま「ミューズ」に向かった。

「ミューズ」は仕事場から東側に向かい、線路を越えた道路沿いにある。片側一車線の道を進むと、右手に「ミューズ」が現れ、対向車線からの車が大して来ないので簡単に右折し、駐車場に入ることが出来た。


 ここの道は通勤時間になると混みがちだが、それを過ぎてしまうと車の量は少なくなる。つまり仕事に行く時間は皆同じだが、帰る時間はバラバラだということだろう。早く仕事が終わって帰る者、遅くまで仕事をする者。どこかに寄り道をしている者。色んな人がいるのだろうと、璃緒はそんなことを思いながら建物の西側にある駐車場に車を停めた。


 璃緒は車から降り、貴重品だけが入った小さな鞄だけを持って「ミューズ」の中に入っていく。

 北側に面したエントランスから入ると、左手に廊下側から窓ガラスで中が見える事務室があるのだが、常駐する管理者がいないのか、明かりが付いているだけで誰もいない。


 また少し進んだ先に、廊下を挟み向かい合わせに作られたレッスン室がある。電気が付いていないので、レッスンはしていないようだ。

 また、どちらの教室も廊下側にすりガラス窓が付いているのだが、窓の三分の一程度は加工されていないので中が見えるようになっていた。外で待っている保護者のためか、不審者用対策なのか。分からないけれど、色々なことを考慮されていることは伺えた。


「……」


 璃緒はちょっとした興味本位で、向かって右手にあるレッスン室に近づき覗いてみる。廊下の光を頼りに見えた部屋には、エレクトーンがずらりと並んでいるのが見え、きっと「グループレッスン」をするための教室なのだろうと彼女は思った。


「グループレッスン」とは、特に幼稚園児から小学校低学年までが行うピアノのレッスンのことだ。指の力がない子供にピアノを触らせるのは早いとか、音楽の初期教育を集団で行った方がいいなどの考えがあるようで、大手の音楽教室でピアノを習う場合はエレクトーンを使い、四人以上十人以下をひとクラスとしてレッスンを始めることが多い。


 璃緒もピアノを幼稚園から習わされていたので、同じようにグループレッスンをしていたことがある。


(この教室とは何にも関係ないのに……。なんか思い出しちゃった)


 璃緒は軽く眉を寄せると、すっとその教室から離れる。反対側のレッスン室は見なかった。視界の隅で、エレクトーンがないことは確認できたが、それ以上は見る気になれなかった。


 ヴァイオリンのレッスン室は二階にある。そのため璃緒は真っ直ぐ廊下を突き進み、そこから繋がる階段を上った。

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