第2話 始まったヴァイオリンレッスン

「あの……こんな状態でヴァイオリンなんて弾けないと思うんですけど……」


 疲れた様子で訴えたが、瑞樹は涼しげな表情で「大丈夫です」と言う。


「三歳から始める子だっているんですから。大人の清水しみずさんだってできますよ」


 三歳の子と比べられるのもどうかと思うが、それほど小さい子もここに来てレッスンしているということである。


「それはそうかもしれませんけど……! ヴァイオリンって大人から始めるには難しいって言うじゃないですか」


 たとえヴァイオリンが持てたとしても、「弾けるかどうか」は別だ。

 ヴァイオリンは「大人になってから弾き始めるのが難しい楽器の一つ」という話は、多くの人が聞いたことがあるだろう。特にギターのように音階を作るポジションのヒントとなる「フレット」が存在しないということが、その難しさのレベルを上げている。


 ギターが大衆に向いているのは、弦のどの位置を抑えるとどの音が出るかが視覚で確認しやすいからだ。しかし「フレット」がないヴァイオリンは、自分の耳で聴いて音階を合わせなければいけない。


 音楽教育は幼いころから始めた方が良いとされているが、ヴァイオリンはそれが顕著である。それは「正確な音」を自身の耳で聴き分ける必要があるからだろう。


 ヴァイオリンを教える立場にいる瑞樹は、それを分かっているはずだ。しかし彼はまるで近所のコンビニ行くくらいの気軽さで、「大人でも始めている人いるから大丈夫ですよ」と言う。

 璃緒は彼の言葉にすかさず否定した。


「一之瀬さんはそうは言いますけど、まだ大人の生徒さんは一人もいらっしゃらないんですよね? なんでそんなこと言えるんですか?」


 ヴァイオリンをケースにしまいながら、彼は「ん?」と言って彼女を振り返ると、罪悪感のない顔で当たり前のように答えた。


「それは、ヴァイオリンの先生をしている友人に聞いたからですよ」

「……」


 ご自身で教えたことがあるわけではないのか、と心の中で思うと、瑞樹は何かを察してすかさず言った。


「清水さん、とにかくやってみましょうよ。大川さんが出したケーキも食べちゃったことですし、三か月無料でレッスンをやるっていう約束、僕も守りますから。ね?」

「あー……」


 璃緒は俯き、額に手を当てる。

 そういえばそういう約束をしてしまったんだっけ、と思い出す。

 考えた末、彼女は諦めたように「分かりました」と言った。


「……三か月。それまではやりましょう。ただし、三か月レッスンを受けてヴァイオリンに楽しさを見いだせなかったら、そこで辞めますからね!」


 それに対し瑞樹は不敵に笑うと、重々承知していることを示すように大きく頷く。


「勿論。清水さんこそ、ヴァイオリンの魅力に憑りつかれて手放せなくなること、覚悟をしておいたほうが良いですよ」


(そうなるとは思えないけど)


 彼女は心の中で呟く。楽器を持てもしないのに、続くとは思えなかったのである。

 しかし、約束は約束。こうして清水璃緒のヴァイオリン生活が始まったのだった。

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