第一章 ヴァイオリンレッスンの依頼

第1話 初めて触れる感覚

 八月の上旬のことである。


 二階の一室にある窓から、午後の強い光が差し込んでいた。暑い夏の季節にふさわしく、外ではセミの鳴き声もしていたが、防音が施された部屋には届いていない。エアコンの稼働音だけが聞こえる静かな一室で、男が女に指示をしていた。


「右手を左肩の上に置いて下さい」

「こ、こう、ですか?」


 璃緒りおは、目の前にいる白いTシャツに黒いズボンをはいた男の指示に従って、体を動かした。


「そうです。そのままの状態で首を上げて――」


 言われて首を上げるとその隙間に、木でできた独特なフォルムの楽器を入れられる。


「はい。顎を引いて支えて」


 言われて顎を引いてはみたものの、支えるにはあまりにも頼りない。彼女は自分を指導している、やんわりとした顔立ちの男に尋ねた。


「……あの、一之瀬さん。私の持ち方合っています?」

「はい。合っていますよ」


 首と肩の間に、重さのあるものを挟んだ試しがないので違和感がある。そのため、今にも楽器が落ちそうで恐ろしかった。


「あの、とても変な感じがするのですが……支えきれずに、ヴァイオリン落っことしそうです」


 璃緒が情けない声を出すと、彼女にヴァイオリンを持たせた一之瀬いちのせ瑞樹みずきは「大丈夫ですよ」と声を掛ける。


「……やっぱり大丈夫じゃないです。落ちてしまいます」

「落ちませんよ」

「……落ちます!」

「大丈夫なのに」


 平然とする瑞樹とは反対に、璃緒は肩に載せているものへの緊張がピークとなった。それから逃れるために、勇気を持って自分の左腕を恐る恐る挙げると、そっとヴァイオリンに触れた。


「もう、無理です! 一ノ瀬さん、取ってください!」


 ヴァイオリンなんて未知の世界である。

 見たことはあっても、触ったためしがない。そのためどのように持っていいのか、触れていいのかも分からず、その上一度体にくっ付けられると離すことすらも難しい。

 困った顔で懇願しただろうか。瑞樹は苦笑しながら頷いた。


「分かりました、分かりました。今、取りますから――。はい、お疲れ様です」


 彼にヴァイオリンを取ってもらい、璃緒はようやく緊張を解いた。

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