星の音色

彩霞

序章

第0話 聞こえてきた曲

 季節は、残暑も終わりに近づいているころ。

 レッスン室の前に立ったとき、ヴァイオリンの音色が聞こえてきた。あと十分もしたら私のレッスン時間が始まる。だが教えるべき生徒がまだ来ていなかったので、先生はその時間を持て余し、ヴァイオリンを弾いているのだろう。


 そのため、このまま「こんにちは」と言って部屋に入っても、きっと彼は演奏をパッとやめて、いつもの朗らかな笑みを浮かべ「どうぞお入り下さい」と言うに違いない。


 だが、私は何となくレッスン室のドアを開けるのをやめて、代わり側の壁に背を預けるとその音に集中した。ドア越しでそれほど大きな音でもなく、さらには籠って聞こえるのに、何故か「聞いていたい」と思わせるような音色。

 どうしてだろう――。と、自分に自問すると、すぐに心の中から答えが返って来た。それは、私がよく知っている曲だから――、と。


 私はヴァイオリンの音に、耳を澄ませる。


 レッスン室の前に立って音が聞こえた瞬間、彼が『きらきら星』を弾いていることはすぐに分かった。二週間前に私に出された課題でもあり、ピアノだったら弾き慣れた曲である。


『きらきら星』は、子どもから大人まで知っているとても有名な曲だ。


 ピアノを習っていた私が、最初に弾いた曲も確か『きらきら星』だったと記憶している。『きらきら星』は入門用として使われる曲だから子どもでも弾けるし、ピアノをちょっとしか弾けない私でさえ目を瞑って弾けるくらいなのだから、講師の彼がこんな簡単な曲を練習する必要などないはずだ。

 それとも、単純に弾きたかったのだろうか?

 いや、彼に限って『きらきら星』を弾きたいということがあるだろうか。舞台に立って弾くこともある人だ。弾きたい曲や練習すべき曲なら、もっと他にあるだろうに。


 それなのに彼は丁寧に。そう、とても丁寧に『きらきら星』を弾いていた。


 単純なメロディーのはずなのに、不思議と聞き入ってしまう感覚は何なのだろう。


 大勢の前で、私がピアノで『きらきら星』を弾いたって、誰も振り返らないだろう。だが、今みたいに彼がヴァイオリンで弾いたら、誰もがその音に耳を傾けるに違いない。当たり前で、聞き飽きてさえいるようなメロディーのはずなのにとても心地よく、聴衆に「もう一度聞きたい」と思わせてしまう何かがある。


(どうしてこんなにも違うんだろう……)


 右手にある窓が、急に明るくなった。太陽を隠していた雲が去ったのだろう。

 私は窓から入って来た光に目を細める。赤く染まった空と、太陽を背にこちら側が陰になった雲の幻想的な風景と、耳に入ってくる子守歌のような柔らかな音色に、ふと涙が出そうになった。


 彼の手から生まれる柔らかな音は、私の凝り固まった音楽の概念を解きほぐしてくれるかのようだった――。

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