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 昔、男と女はとても深く愛し合い、互いのほかに思いを寄せることはありませんでした。それなのに何があったのでしょうか。女は些細なことにつけて夫婦の関わりを心苦しいものと思い、このような歌を壁に書きつけました。


  いでていなば心かろしといひやせん 世のありさまを人は知らずて

  (家を出て行けば薄情と言うのかもしれません されど夫婦のありさまを人は知らない)


 そう書いて女は家を出て行きました。男はこのように書かれた歌を見て、心を隔てるようなことは身に覚えがなく、様子のおかしい女は何が原因でこうなったのだろうとひどく泣き崩れ、どこを訪ねて行ったのだろうと門を出て左右見渡してみるけれど、女の行く先に心当たりはなく家へ戻り


  思ふかひなき世なりけりとし月を あだにちぎりて我れやすまひし

  (愛す甲斐のない夫婦となった 数多の年月を不誠実に契りて共に過ごしたわけではないのに)


 とぼんやり過ごしておりました。


  人はいざ思ひやすらん玉かつら 面影にのみ出て見えつつ

  (あの人はどう思っているのだろう 面影に残る君を見る)


 ずいぶんと久しくなった頃、女は堪えかねて文を送りました。


  今はとてわするる草の種をだに 人のこころにまかせずもがな

  (もうこれまでと萱草かんぞうの種をあなたの心に蒔かないでほしい)


 これに男は返しました


  わすれ草うとだにきく物ならば 思ひけりとは知りもしなまし

  ((君と会えなくても)せめて忘れ草を植えることだけでも聞けたなら、君が私を思っていたと知れるでしょう)


 そしてあの時より更に言葉を交わして男は詠みました。


  わするらんと思ふ心のうたがひに ありしよりけに物ぞかなしき

  (忘れるのだろうと思う心の疑いは、別れたあの時よりもずっと物悲しい)


 これに女は返しました。


  中空なかぞらにたちゐる雲のあともなく 身のはかなくもなりぬべきかな

  (どの山にもかかることなく、ただよう雲が消えるように 私も儚いものへとなるのでしょう)


 というけれど、夫の家に帰りまた妻となれば疎ましくなるのでした。


萱草かんぞう 忘るる草。それを身に附けていると物を忘れる呪力があると上代から信じられていた。



【二十一段】

 昔、男女、いとかしこく思ひかはして、異心ことこころなかりけり。さるをいかがありけんいささかなる事ににつけて、世の中を憂しと思ひて、いでなんと思ひつつかかる歌をなん詠みて、物に書きつけける。

  いでていなば心かろしといひやせん 世のありさまを人は知らずて

 とよみ置きて、出ていにけり。この男、かく書き置きたるを見て、しう心おかるべきことも覚えぬを、何によりてか斯在かからんと、いといたう打ち泣きて、何方いづかたに求め行かんと、かどに出でて、左見とみ右見かうみ、みれど、何處いづとをはかりとも覚えざりければ、かへり入りて、

  思ふかひなき世なりけりとし月を あだにちぎりて我れやすまひし

 といひて、なかめ居り

  人はいざ思ひやすらん玉かつら 面影にのみ出て見えつつ

 この女、いと久しくありて、念じわびてにやありけん。いひおこせける。

  今はとてわするる草の種をだに 人のこころにまかせずもがな

 返し、

  わすれ草うとだにきく物ならば 思ひけりとは知りもしなまし

 又々、ありしよりけにいひかはして、男、

  わするらんと思ふ心のうたがひに ありしよりけに物ぞかなしき

 返し、

  中空なかぞらにたちゐる雲のあともなく 身のはかなくもなりぬべきかな

 とはいひけれどおのが世になりにけれは、疎くなりにけり。

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