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 昔、紀有常きのありつねという者がおりました。有常は三代の帝(仁明天皇、文徳天皇、清和天皇)にお仕えし、帝が世を治めていた頃もございました。しかし、世は変わり、時も移れば、加護を失った有常は一般の者よりも貧しく落ちぶれてしまいました。

 有常は、心美しく、上品なことを好む人柄で、他の貧しい人とは異なり、出世心もなく、貧しくてもなお栄えていた頃の心のまま、世間の常識も知らず清貧に過ごしておりました。しかし、長年連れ添った妻の心は次第に離れていき遂には尼となりました。

 先に尼となった姉の許へ行く妻とは誠に睦ましい仲ではなかったのでしょう。それでも今を見限り仏門へ入る妻を哀れと思い、餞別の品を贈ろうにも貧しければ贈る物は何一つとなく、どうしたらとよいかと心の内を語り合える友人の許に、このようなことがありまして、僅かなことさえも出来ずに妻を送り出したのです。と文を書き歌を詠みました。


  手を折りにける年を数ふれば 十といひつつ四つは経にけり

  (指を折り年を数えれば 十、十、十…と四十年は経った)


 友人はとても痛ましく思い


  年だに十とて四つは経にけるを 幾たび君を頼み来ぬらん

  (十と言い四つ重なる歳月には 幾度と細君は君を頼ってきたのであろう)


 こう言って衣類のほかに寝具まで贈りますと、有常はたいへん喜び


  これやこの天の羽衣うべしこそ 君が御衣みけしにたてまつりけれ

  (これがあの天の羽衣だと頷ける 君が美しい着物を奉るのも当然こと)


 と詠み、更にあまりの嬉しさに


  秋やくる露やまがふとおもふまで あるは涙のふるにぞありける

  (秋が来たのか露に濡れたと間違えるほど湿った袖は我が喜びの涙が落ちたものであった)


 と詠みました。



【十六段】

 昔、有常ありつねといふ人ありけり。三代みよみかどにつかうまつりて、時にあひけれど、後は世かはり、時うつりにければ、世のつねの人のごともあらず。人柄は心うつくしう、あてはかなる事を好みて、こと人にも似ず、世のわたらひ心もなく、貧しくても、猶、昔よかりし時の心ながらに、世の常のことも知らず。年頃あひなれたる、やうやう床離れて、遂に尼になりて、姉のさきだちて尼になりにけるがもとへ行く。男、まことむつましき事こそなかりけれ。今はとて往くを、いとあはれとは思ひけれど、貧しければ、るわざもなかりけり。思ひわびて、ねんごろに相語らひける友だちの許に斯々かうかう、今はとてまかるを、何事もいささかなる事も得爲でつかはすことと書きて、おくに、

  手を折り経にける年を数ふれば とをといひつつよつはへにけり

 この友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物まで贈りてよめる。

  年だに十とてよつはへにけるを いくたび君を頼みきぬらん

 かくいひ遣りたけければ、よろこびにへて、

  これやこの天の羽衣うべしこそ 君が御衣みけしにたてまつりけれ

 よろこびに堪へかねて

  秋やくる露やまがふとおもふまで あるは涙のふるにぞありける

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