三日目
夢を見ていた。
ビールの空き缶や空になったスナック菓子の袋、読み終えた雑誌などが床に散乱する室内。俺は部屋の角に身体をつけて存在を消すように小さくなり、体育座りをしていた。夢の中の部屋は天井が高く、すごく広いように思えたが、どうやら部屋が大きいのではなく俺の身体が小さいようであることがわかった。そんな俺の、袖から露出する両腕には見覚えのあるような、どす黒く変色した青痣がいくつもできていた。
室内には自分の他に、ヤクザ映画に出てきそうな強面でスキンヘッドの大柄な男が一人、テレビを見ながら酒を飲んでいた。
やがて男は手にしていた酒の缶が空になったのか、面倒くさそうに立ち上がると、俺の横をのそのそと通り過ぎて行った。その先はキッチンなのだろう、冷蔵庫を開けて中を物色するような騒々しい音が聞こえてきた。
「酒がねぇじゃねぇか!なにやってんだあのアマぁ!」
突然の怒声に反射的に肩が跳ね、続いて聞こえてきたドスドスと床を踏み鳴らしながら近づいてくる音に身体を強張らせた。
不意に頭に激痛が走った。髪の毛を掴まれたようで、そのまま上に引き上げられて身体が少し持ち上がる。
「おい。あの女は買い物か?いつ出て行った」
俺は頭部の痛みに必死になって壁に手をつき、なんとか身体を支えて痛みを和らげようとした。
「二時間くらいまえ…です…」
その少女のようなか細い声は俺の口から発せられ、それを聞いた男は舌打ちをする。
「どこで油売ってやがるんだあの野郎!」
怒鳴り声と共に、腹に衝撃が走る。一瞬呼吸が止まり、うつ伏せでもがく。どうやら腹を蹴られたらしい。
倒れ込んだ体勢のまま、背中を踏みつけられ、そのまま何度も足蹴にされた。
やがて男はイライラした様子で室内を歩き回ると、テーブリの上のリモコンを拾い上げて投げつけてくる。ものすごい速さで一直線に俺へと飛んできたリモコンは、突然のことに庇うことができなかった側頭部へと当たり、俺は一瞬目眩を起こした。
やがて目の焦点が戻ってきて見たものは、男の右手に握られたアイロン。
血走った目で、男は手にしたアイロンを大きく振りかぶった。
隣で人の動く気配がし、目が覚めた。人ひとり分の体重が解放された反動で、マットレスが俺の身体を揺さぶる。
呼吸が荒く、全身に汗をかいていた。やけにリアリティのある夢だった。もちろんだが、俺はあんな経験などしていない。
夢の中の俺は少女だった。少女のような小さいからだで、少女のようなか細い声を出していた。あれはサヤが受けていたときの記憶なのだろうか。
考えすぎだ。あれは夢だ。俺が勝手に作り出した幻想だ。
そう考えようとして、サヤがここにきた夜見た背中の三角形のアザを思い出していた。
「おはよう。サヤ」
「あ、おはようございます」
キッチンを覗くとサヤがベーコンを巻いたアスパラを炒めていた。その隣ではコンロの火にかけられた、昨日の味噌汁が微かに湯気を立て始めている。
「もう少しで出来るので、テレビでも見ていてください」
炒め終えたベーコン巻きを皿に移すと、慣れた手つきで卵をフライパンに割り入れていく。その様子は昨日の朝と比べて軽やかで、心なしかご機嫌であるように見えた。昨日のことを引きずっていやしないかと少し不安だったが、どうやら杞憂だったようだ。
出来上がった朝食をサヤが運んで来たため手伝おうと思い立ち上がろうとした時、室内に玄関のチャイムが鳴り響いた。
突然のことに、中腰の姿勢のまま一瞬固まってしまった。両手に茶碗を持った状態で立ち止まっているサヤと目が合う。
普段この部屋には訪問者など全くと言っていいほど訪れない。そんな状況で現れる訪問者の心当たりは、数えるほど多くはない。
「サヤ、念のため何処かに隠れて、絶対出てくるなよ」
「えっ、でも」
「念のためだから。どこでもいいから隠れて」
おろおろとステップを踏んでいるサヤを部屋に残して廊下に出た。扉を閉めて玄関へと向かい、ドアスコープを覗く。
やはりそうだ。
鍵を開けて玄関の扉を開け放つ。下手にコソコソしていると後ろめたいことがあるように見えてしまうため、毅然とした態度で臨んだ。
「はい」
「どうも。私、警察の者です。この部屋の住人の方ですか?」
訪問者はドラマなどでよく見るような自己紹介で、警察手帳を提示した。制服も着ているし、どうやら本物のようだ。
「ええ、そうです。何かあったんですか?」
「はい、ちょっと。二階に住む河部さんをご存知でしょうか」
「いいえ、近所付き合いとかあまりしないもので。大家さん以外の住人の名前はあまり…」
嘘は言っていない。住人の名前をよく知らないのは事実だし、サヤと会うまで河部という名前の住人がいることも知らなかった。
最近はよくあることなのだろう、その部分に関しては警察も特に気にしていないようだった。
「実は、その河部さんのお宅のお嬢さんが一昨日から帰っていないようでして。なにかご存知なことがあればお伺いしたいのですが」
「いやぁ、全然知らないですね。家出とかではないんですか?」
ここで口を滑らせて、その女の子が小学生であることなど俺が知り得ない情報を喋ってしまったら取り返しがつかなくなる。こちらから何か言ってしまう前に相手に情報を喋らせようと思った。
「その可能性もありますが、その女の子がまだ十歳そこそこらしいのでその線は薄いかと我々は考えています。あなたは…えっと」
「神沢です」
「失礼しました。神沢さんはこの辺で、その位の歳の女の子を見かけたりもしなかったですか?」
「残念ながら見かけてないですね」
昨日家を出る時と帰ってきた時、周囲に人がいないか慎重に確認したため見られている心配はまずないはずだ。
懸念しているのは家を出たあとショッピングモールに着くまでの道のりと、服を買って帽子を被らせるまでだが、そこに関しては俺は大丈夫ではないかと考えている。
その後、二、三質問されたが特に疑われた様子もなく、警察は帰って行った。
扉が閉まると、すぐさま扉に耳をつけて外の様子を伺う。足音が遠去かったのを確認して、扉に鍵を掛けた。
緊張が解けて大きく溜息をつく。大丈夫、変なことは言っていないはずだ。
部屋に戻るとサヤの姿はなく、一見すると無人のように見えるが、視線を下に落とすとベッドの下から小さな脚が片方飛び出していた。そっと近寄り踵をスッと撫でると、ひゃっ、という声が聞こえ、続いてゴンという鈍い音が響く。飛び出た片足が宙を蹴って芋虫のように悶えていた。
「隠れる才能はゼロだったな。警察が部屋の中まで入ってこなくて良かった」
悶える脚を掴んで引きずり出すとひたいと瞳を赤くしたサヤが口を尖らせていた。
「ショウジさん、ひどい」
「可愛らしい脚が飛び出てたからついね」
と言いながら頭の埃を払ってやる。恥ずかしくなったのか、サヤはそんな俺の手をバタバタと振り払った。
「それより、警察の人だったんですか?大丈夫だったんですか?」
「ああ、捜索願が出されたから、とりあえず住人に話を聞いて回っているって感じだった。多分、俺が何か疑われているってわけではないよ」
「そうですか…良かった…」
そう言って張っていた肩を落とすと、歩に落ちない顔をした。
「でもなんで捜索願いなんて出したんでしょうね」
ごもっともである。警察に見つかりでもしたら、サヤの異常に小さい身体のことや、所々に見えるアザやキズから虐待のことがバレてしまうリスクが高い。現に、昨晩父親は声を荒げて、その辺りを気にしているように聞こえた。
「さすがに子供がいなくなっている状態で捜索願いが出ていないとなると怪しまれるからじゃないかな。サヤが警察に保護されて虐待のことがバレるリスクもあるけど、届を出さないのも同じくらいリスクがある」
「あ…ああ、そうか。そうですよね。そうだった」
このサヤの反応に若干違和感を覚えたが、この時はあまり気にしていなかった。後から思い返せば「警察に保護されると虐待がバレてまずい」というのはあくまでも大人目線だから考えつく意見だと言うことに、この時は気づかなかった。
「でも昨日一緒にお出かけとかしちゃいましたけど、大丈夫でしょうか…」
「それは大丈夫だと思う。恐らくだけど、警察はサヤの顔を知らないし、近所の人もサヤの顔を知らない。あのクソ親父が来てから写真なんて撮っていないだろう?それに、ここ数年は学校にも行かせてもらえなかったから、学校行事の写真もないはず」
「確かに…そうですね。写真は何年も撮っていないと思います」
まあ、唯一あるとすれば…
「幼少期の写真を母親が持っていて、それを警察に見せた可能性はあるな。面影はあるだろうからそれが心配だけど、子供の成長は早いし、今はすごく痩せてしまっているから多分見てもわからないんじゃないか」
それでも不安そうな顔をしているサヤの頭を撫でてやる。
「だから心配するな。念のため、しばらく外出は控えるようにしよう」
小さく、うん、と頷いた。
朝食を食べ終えてくつろいでいたが、外出ができないと思ったよりもやることがないことに気がついた。サヤは今キッチンで朝食に使った食器やフライパンを洗っている。俺も手伝おうとしたのだが「邪魔なので向こうに行っててください」と言われて退散した。あいつはたまに素直じゃないところがある。
何かすることはないかと考えていると、洗い物を終えたサヤが戻ってきた。
「なに唸っているんですか?」
「外出できないとやることないなと思ってな。普段あまり家にいることなかったし」
サヤがいなかったときは毎日パチンコだったからな、とは言わない。
「それじゃあ」
それじゃあ?
「掃除をしましょう」
「ソウジ?」
思いもよらない提案に、ソウジというのはつまり掃除のことなのかと一瞬考えてしまった。相似でもないし送辞でもないだろう。
「なんでまた急に」
「居座らさせてもらっている私が言うのもなんですが、この部屋ちょっと埃っぽいですよ」
まあ、それもそうだろう。最後に掃除機をかけたのはいつだったか覚えていない。少なくとも月単位で掃除はしていない。
「あと、シーツも少しにおいます」
「え、本当に?気がつかなかった。ごめんな臭いとこで寝させて」
「別に嫌なわけでは…いや何でもないです」
おっさんの臭いの染み付いたシーツが嫌じゃないわけないだろう。恥ずかしくなって急いでベッドからシーツを剥ぎ取る。
「とにかく、ちょうどいい機会なので一通り掃除をしましょう」
サヤの号令で時期外れの大掃除が始まった。と、言っても部屋の中はそんなに広くない上に物も少なかったため、それほど大規模にやる必要もない。
とりあえずシーツや枕カバー(恐らくこれも臭っただろう)を洗濯機に放り込んで回してから、掃除機をかけようとする。と、キッチンの掃除を始めようとしていたサヤに「先に上の埃を落としてください」と注意された。まるで姑だ。
埃を落とし、掃除機をかけ、トイレ掃除を終えたあたりで洗濯が終わった。その間にキッチン掃除を終えたサヤは床や壁などと拭き掃除をして、俺が洗濯物を干し終える頃には十一時を回っていた。
「意外と早く終わりましたね」
「部屋、狭いからな」
慣れないことをしたからか、全身がどっと疲れていた。溜息をつきながら、思わずシーツのかかっていないベッドに座り込む。すると小さくスキップしながら近づいてきたサヤが、さも当然かのような素振りで俺の膝の上にちょこんと座ってきた。
「なんだ」
「いいじゃないですか。私も疲れました」
脚を揺らして何故だかご機嫌そうに見える。あまり疲れたようには見えなかった。目の前にあるゆるくウェーブのかかった黒髪が揺れる度に、なんだか心落ち着く香りが鼻をくすぐった。
窓から差し込む陽気に心地よくなり、そのまま後ろへ倒れて寝転がると、真似するようにサヤが横に寝転がる。少しモゾモゾと動いた後に「よいしょ」と言いながら俺の腕を水平の位置まで持っていき、勝手に枕にされた。
ジロリとサヤの方を見ると
「いいじゃないですか」
と言ってニヤリと笑った。俺はこいつには勝てないらしい。窓から射す陽光と懐から伝わる体温の暖かさに微睡がやってきて、面倒になった俺はサヤにされるがままでいることにした。
モゾモゾとした動きで目が覚める。隣では相変わらず俺の腕を枕がわりにしたサヤが、良い首の位置を探して蠢いていた。どうやらこれでも寝ているらしい。おさまりがいい位置を見つけたようで、また静かに寝息を立て始めた。
窓の外を見ると、太陽がだいぶ低い位置にあるように見える。どれほどの時間寝ていたのだろう。ベッドの上に放り出していたスマートフォンを手に取ると、そのロック画面には十六時をやや過ぎた時間が表示されていた。
「マジかよ…」
五時間ほど寝ていた計算となり、それは昼寝の域をゆうに越えていた。絶望感に思わず声が出てしまった。
「おい、起きろ。とんでもない時間寝ているぞ」
されるがままに揺さぶられながらも、サヤは俺の腕にしがみついて起きる気配がなかった。ちなみに俺の右肩から先の感覚はとうになくなっている。
いくら揺すっても起きないため鼻を摘んでやると、眉間にシワを寄せて少し苦しそうな声を出したのちに「ふが…」というブタのような鳴き声を上げながらようやく目を覚ました。
「…ほはようございまふ」
「おはよう。もう夕方だぞ」
摘んでいた鼻から手を離すと、サヤは猫が顔を洗うように鼻をグシグシと擦って
「寝過ぎちゃいましたね」
と言って大きく伸びをする。その後、脱力をして一息つくとすっくと立ち上がった。
「それじゃあ晩ご飯を作りましょうか」
「え?まだ早くないか?」
不敵な笑みを浮かべてこちらを振り返ったサヤは、俺をまっすぐ指差した。
「今日、ショウジさんにはカレーの作り方を覚えて貰います」
「なんだそれ…」
唐突な半ば強制的な提案に、そんな言葉しか出てこない。
「さすがにショウジさんは料理ができなさ過ぎると思います。せめてカレーくらいは作れるようになってください」
そう言うとサヤは、ふんっとひとつ鼻を鳴らして得意げな顔をした。
そこから、サヤ先生指導のカレー講座が開催された。カレーを作ったことがないのは確かだが、さすがに野菜を煮込んでルーを入れるだけなのだから教わるまでもないだろう。
そうたかを括っていたのだが、カレー作りはそう甘いものではなかった。野菜の切り方から飴色玉ねぎの作り方、煮込むときの火加減など、各工程ごとに細かく注意を受けてなんだか自尊心が音を立てて削り取られていくような気分だった。カレーがこんなに難しい料理だとは思っていなかった。
そうしてなんとか出来上がったカレーは俺が作ったものとは思えないほど、良い香りを立ち昇らせていた。
「まあ、実質作ったのはほとんど私ですけどね」
皿に盛られたカレーライスをスプーンで口に運びながら、自慢げにサヤが言う。
個人的にはもう少し辛味の方が好きなのだが、それを差し引いても、悔しいことになかなか美味しかった。
「子供のお前にはわからんだろうけど、大人の男なんてみんな俺と同じようなもんだぞ?味噌汁すら作れない男なんてごまんといる」
あくまで俺個人の意見だが。
「まあ…言われてみたら、私の本当のお父さんも料理全然できなかったですね」
男は料理なんてできなくていいんだよ、とは直接は言わないが、したり顔でそうサヤにアピールする。
「でも…一度だけ、お父さんがオムライスを作ってくれたことがありました。どうして作ってくれたのか、経緯はもう覚えていないんですけど…」
懐かしそうな顔で目を細めている。
「形は悪かったし、アレンジもなにもないただのケチャップライスだったんですけど、すごく美味しく感じたんですよね」
「すごいな。オムライスなんて絶対包むのに失敗するだろうから作ろうと思ったことがない」
「今度挑戦してみてください。大丈夫ですよ、崩れても味は変わりませんから」
そう言ってサヤは意地悪そうに笑った。
今日一日ダラダラと過ごして、アイツとの生活を楽しんで入る自分がいることに気がついた。まるで姪っ子と遊んでいるときのような、なんとも言えない心地良さを感じた。
しかし、そんな暮らしをいつまでも続けるわけにはいかない事もわかっていた。警察も捜索を始めている。そもそもアイツの家はここのすぐ上にあるのだ。見つからない訳がない。どんなに運が良かったとしても、保って一年だろう。
蛇口をひねり、シャワーから吐き出される冷水を頭からかぶる。
今後のことを考えると、すぐにでも警察に連絡して児童相談所に保護をしてもらうのが賢明だろう。しかし、はたしてそれで解決するのだろうか。あの父親がうまいこと児童相談所や警察を言いくるめて、サヤが自宅に帰されるようなことになれば最悪だ。そうなれば、サヤは恐らく二度と陽の光を浴びることはなくなるだろう。監禁で済めばまだ良い。下手したら取り返しのつかないことになる可能性もある。
ボイラーが暖まったようで、冷水だった水が熱を帯び、暖かい水流が全身を包む。
決めなければいけない。サヤの一生を背負うか、法的・社会的ルールに則って然るべき場所に届け出るか。どちらを選んでもリスクがある。アイツを幸せにするには、どちらを選べば良い?
シャワーによって温められた背中を、冷えた風が撫でていることに気がついた。扉がきちんとしまっていなかったのか、と思い後ろを振り返る。
「うわっ。バレちゃった。びっくりさせようと思ったのに」
サヤが立っていた。なぜか、なにも服を纏わずに。
「…なにしてる」
「背中流してあげようと思って」
「いやいや、それは流石にまずいだろう…。せめてタオルを巻いてくれ」
「なんで?身体洗えないじゃないですか。ちょっと、寒いんで奥詰めてください」
サヤはぐいぐいと俺の背中を押して中まで侵入すると、足を使って行儀悪く扉を閉めた。こいつには恥じらいというものがないのだろうか。
「頭洗ってあげますから座ってください。届かないです」
しつこく髪の毛を引っ張られ、俺は諦めた。こいつは一度言い始めたら引き下がらないだろう。
半ば強制的に座らされ、ドバドバとシャンプーを頭にかけられる。そして細い指で頭をこねくり回された。爪を立ててガリガリ擦るような指遣いに頭皮がハゲ上がるのではと不安がよぎったが、黙ってされるがままでいることにした。
「髪の毛短いと洗うの楽ですねー」
そんな言葉と共に唐突に頭から湯を浴びせられ、石鹸水が盛大に目の中に入ってくる。もうなるようになれ。
「それじゃあ次は私の番でーす」
座っている俺を追いやるようにしてシャワーの前に陣取った。まだ背中を流してもらっていないのだが頭を洗って満足したらしい。
「わかりましたよお嬢サマ…」
「よきにはからえー」
シャワーのお湯で髪の毛を濡らす。黒々と光沢を帯びた髪の毛は光が反射してとても綺麗だった。
柔らかな髪の毛に指を通すと、束になっていた髪がほろほろと解けてゆく。
力加減がわからなかったため、出来るだけ優しく頭を擦ってやる。よくわからない鼻歌を歌ってご機嫌な様子なので、とりあえずは大丈夫そうだと判断した。
頭の泡を流してやると、続いて背中を流すため垂れていた髪の毛をどかす。すると、ここに来た初日にも見たアザが露わになり、思わずそっとアザの場所を撫でた。
「ここ、痛くないのか?」
一瞬なんのことを言っているのかわからなかったようだが、すぐに察したようだ。
「大丈夫ですよ。もうずいぶん昔の痕なので。全然痛くないです」
「そうか…」
泡立てたスポンジで優しく擦る。正面にある鏡の向こうでは、サヤは鼻歌を歌いながら目を細めていた。その緩んだ顔を見ていて、聞かずにはいられなかった。
「なあ」
「なんですかー?」
「お前は、どうなれば幸せだ?」
うーん、と少し間があり、
「ショウジさんと一緒に居られれば、それで幸せですよ」
そう言うとサヤは、目を細めたまま少し恥ずかしそうにはにかんだ。
昼間にたっぷり寝てしまったせいで眠気のやってくる気配が全く感じられなかった。それはサヤも同じなようで、すでに夜の十時を回っているというのに、ぱっちりと開かれた目は爛々と輝いていた。
「仕方ないな」
テレビの下の棚を漁ってDVDを取り出し、サヤの方に向き直る。
「夜更かしするか」
「良いですね」
ニヤリと笑うと、サヤもニヤリと返してくる。
中古で購入してまだ見ていなかった映画をチョイスしたのだが、たまたまそれが本格ホラー映画だった。だんたんと不穏になっていく映画の雰囲気に隣に座るサヤはジリジリと近づいてきて、最終的には俺の腕に顔を埋めてしがみつきながら観ていた。映画が終わってエンドロールが流れると涙目でジッと睨まれたため、一昔前に流行った恋愛映画を続けて流すことでどうにか機嫌を直してもらった。しかし流石に二本目ともなると少し疲れてきたようで、隣を見るとウトウトとして目が半開きになっているサヤがいた。
「そろそろ寝るか?」
「だいじょうぶ。まだみる」
すでにほとんど目が開いていない状態でそんなこと言われても全然説得力がない。
テレビを消し、部屋の電気を消す。
「奥…」
目を糸のようにしたサヤがフラフラとして足取りで俺を壁際に押し込んだ。
「わかったわかった。大丈夫だって」
先にベッドに入ると、枕元に腕を広げ「ほら」と言ってやる。
一瞬驚いたように目を開いたサヤは、すぐに表情を崩して体当たりするように飛び込んできた。
「おやすみなさい」
俺の腕を枕にして顔をこすりつけながらそう言った。
「ああ、おやすみ」
そう返す頃には、隣からはすでに静かな寝息が聞こえ始めていた。
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